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「努力が報われる社会」を実現するための大学改革

2019年05月14日

ほり屋飯盛

先日、東京大学で行われた入学式での上野千鶴子氏の祝辞が話題となった。そのなかで上野氏は、頑張ったことが報われてきたのは「あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください」と述べた。それは東大に入学できたのは、自分の努力だけでなく、恵まれた環境と恵まれた能力のおかげであり、それを自分のためだけでなく、頑張っても報われない人たちのために使ってほしいというようなメッセージであった。この祝辞は各方面から賞賛を浴びたが、私には「恵まれた環境」や「努力が報われない」という言葉に違和感があったので考えてみた。

確かに恵まれた環境に生まれれば、親の教育投資などによって、その後の人生において経済的な成功を得やすくなる。だが、環境が努力よりも人生を左右するのは、大卒者が持つ価値に、努力したかどうかの要素が含まれずに、その人の生まれた環境がその評価基準になっており、大多数の人がおかしいと思いつつもそのまま放置されているからではないだろうか。

日本政府は生まれた環境による教育機会の不平等に対し、すべての人が活躍できる社会を実現するために「人づくり革命」と称して幼児教育や高等教育の無償化や大学改革、リカレント教育(社会人の学び直し)を推し進めていこうとしている。世界的にも教育年数とその後の収入には相関関係があり、人生の成功において教育が重要であるのは事実だ。大手企業の求人の多くは大卒資格が求められており、ホワイトカラーは年齢とともに収入が上がる傾向にある。一方、ブルーカラーが従事する職務の多くは、大卒資格は必要なく、20代前半ではホワイトカラーの人々との収入差もあまりない。しかし、20代後半から徐々に差が開きはじめ50代後半で1.5倍と最も大きくなる1

企業がなぜ大卒資格のある人材を欲しがるかというと、まず、企業は雇ってからでないとその人の能力を知ることができないという情報の非対称性がある。そして人的資本理論では教育を受ければ受けるほどその人の生産性が上がると考えられているから、「大卒者=生産性が高い」とみなされる。加えて、シグナリング理論では高い能力を持った人は高学歴になるため、「大卒者=生まれ持った能力が高い」ものとみなされる。

しかし、日本の大学は受験競争に勝ち抜いて入学さえしてしまえば、大して勉強しなくても卒業可能であり、大卒者=生産性が高い、能力が高いとは必ずしも言えないだろう。大学に入学する学生のモチベーションも、勉強や研究をして自分の生産性や能力を高めたいというよりは、就職や結婚等その後の人生に有利だから(未来のために今の快楽より受験勉強を優先する忍耐強さ)とか、まわりが進学するから(同調行動)とか、親が進学しろと言っているから(年長者に対する従順さ)、というのが大半ではないだろうか。

そう考えると、大卒者のシグナリングには能力等だけでなく、「大卒者=大学に進学できるぐらいの裕福な環境で育ち、親の言うことに従い、周りの人と同調・協調して上手くやっていける真面目で逸脱行為がない人」という含意があると個人的には思う。もしそうであるならば、恵まれた環境に生まれた人が評価されるように社会がデザインされているだけであって、努力をした人を評価するように、社会を変革する必要があるのではないか。そうしなければ、いくら「無償化」といって教育投資を増やしたところで、真の意味での高い生産性と能力を持った人材を育てることも不可能であるし、日本経済の生産性の向上も望めない。そこで、大卒者が持つ価値を変化させることが重要であり、教育の無償化と同時に大学自体の価値の向上をはかることが喫緊の課題だと思う。

「人づくり革命」における大学改革では、大学の役割機能の明確化や大学教育の質の向上、経営力の強化などを推進しようとしている。そのため、日本政府は実務家教員や学外理事を置くことを求めているが、このような改革では十分ではなく、今ある人的資本(既存の教員)の質を上げることがむしろ重要であると思う。大学の役割としては大卒者の持つ価値を本当の意味で個人の生産性や能力の高さと等しくするべきだ。そのためには、大卒資格を現在のように簡単に取らせていてはいけない。私が通っている大学では、定期試験で毎年同じ問題を出題したり、出席点だけで60%(出席すれば単位を取得できる)を与えたりして、学生から真面目に勉強するインセンティブを奪う教員がおり、それを本人は不出来な学生を救う「善」だと言っているが、それは「偽善」である。

また、大学教員の世界はクローズな世界であり、多くの教員は他の教員がどのような授業をしているかを知らない。自分の授業をブラッシュアップする機会も少なければ、他者との競争もないので、勤続年数や経験とともに大学教員としての質が上がっているとは言えないであろう。効果的な授業の方法等については、教員への教育投資も行われていない状態で、各々が自己流に授業をしている。さらには、それを監視・フィードバックされる機会もない。このような状態では大学の質が下がるのは当たり前であり、教員が各自の授業の質を高めるためのインセンティブを与えることや仕組み作りが重要ではないか。

そして、経営学や経済学の研究者が多数雇用されているにも関わらず、大学の経営力の強化を求められるのは、彼らにリーダーシップ(実行力)がないからだと思う。組織がどうしたら良くなるか、どうしたら利益を上げられるかの研究で最先端であるはずの大学が、国を代表する経営力の強い組織ではないこと自体がおかしい。論文や自著では女性活躍推進を息巻いている労働経済学者が所属している大学の学部長がすべて男性であることなんてざらにある。大学では「課題発見」の重要性を謳っていながら、自分たちの「課題発見」はされたくないし、学生に「発言しないことは何も考えてないのと同じ」と指摘しながら、教授会では何も発言しない教員が多いと聞く。

高等教育を無償化したところで、大学の教育の価値が無に等しいのでは元も子もない。ましてや、そのような実行力のない教員に教わり、特に勉強もしないで大学を卒業した経営者や管理職が、教育の価値を認め、自社の従業員に対してコストを支払って大学でのリカレント教育を受けさせるだろうか。研究と実行は別であると言われそうだが、私の大学には社会問題に真摯に取り組んで、研究だけでなく先頭をきって課題解決に乗り出している教員もいる。そして、彼の授業を受講する学生意欲と能力はとても高い。

大学は、無償化とともに簡単に卒業できるようなシステムを排除し、大卒者の価値をその人の生産性や能力に見合ったものにすることによって、生まれた環境によってすべてが決まる社会から、その個人の実力や努力が評価されるような社会へと変化する役割を担うように改革するべきではないだろうか。

【参考文献】

  1. 「平成30年度厚生労働省賃金構造基本統計調査」製造業における男性の管理・事務・技術労働者:生産労働者の比で計算。
ほり屋飯盛(ほりやめしもり)
  • 大学生
36歳で大学に入学。まわりの学生には19歳と偽り、はじめはオープンキャンパスの学生トークショーに出演したり上手くやっていて、来年こそはミスキャンパスもいけるかもと思っていたが、「プラザ」を「ソニプラ」、「プリント」を「わら半紙」と言ってしまったことから実年齢を怪しまれはじめる。最近では「ほり屋さんの年齢を探ると社会から消される」と噂が流れ、ミスキャンパスへの道が閉ざされ気味。社会科学専攻。38歳の目には最近の大学生や大学やはどのように見えるのかなど書いてます。

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