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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2025年05月29日

リスペクト・ハラスメント

多様性が叫ばれる現代において、ダイバーシティの重要性は誰もが認めるところだと思います。様々なバックグラウンドを持つ人々が共存し、それぞれの個性を活かしながら社会を形成していくことは、イノベーションを生み出し、より豊かな社会へと繋がるはずです。

しかし、最近気になる議論があります。それは、ポリティカル・コレクトネス(以下、ポリコレ)を過度に追求するあまり、「相手へのリスペクト」が半ば強制のようになり、それが新たなハラスメントになりかねないのではないか、というものです。

本日は、この「リスペクト・ハラスメント」とも言える状況について、いくつかの実例を交えながら、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。



1:言葉狩りの行き過ぎ

そもそも私がこの「リスペクト・ハラスメント」について考えるきっかけになったのが、ある野球系Youtuberさんの問題提起でした。

そのYoutuberさんは阪神ファンなのですが、ある試合実況動画の中で、横浜DeNAに「それ、巨人戦でやってくれよ」とこぼしました。
というのも、横浜は阪神戦の直前の巨人戦で全く打てず惨敗していたのですが、阪神戦になって人が変わったかのように打ちまくったからです。
当時巨人と阪神は首位を争っていましたから、「それ、巨人戦でやってくれよ」と嘆きたくなるのは当然だと思うのです。

しかしその動画に対して「横浜へのリスペクトに欠ける!」という非難のコメントが多く投稿され、炎上とまではいかなくてもかなり荒れたコメント欄になってしまいました。

もちろん、差別的な意図を持つ表現や誹謗中傷は許されるべきではありません。たとえば別のYoutuberさんは阪神が巨人の戸郷投手にノーヒットノーランを食らった後、観客席の子供と一緒に「くたばれ戸郷!」と繰り返し、案の定「くたばれ(=死ね)はダメ」と少し炎上しましたが、これはさすがに誹謗中傷と言われても仕方ないでしょう。

しかし、先の「それ、巨人戦でやってくれよ」であったり、リードした最終回2アウトでの「あと一球!」コール、そしてチャンスでの「○○倒せ!」などは、勝負の世界では当然と言える言動まで、まるで重大な罪を犯したかのように責め立てるのは、果たして健全なコミュニケーションと言えるでしょうか?

「〇〇という言葉は△△という人やグループを傷つける可能性があるから、使うべきではない!」

このように、一方的に特定の言葉の使用を禁止し、それに従わない場合は「リスペクトがない」と断罪するのは、相手への配慮というよりも、むしろ言葉による管理であり同調圧力のように感じられます。

2:趣味嗜好への過度な配慮の要求

次のケースは、Xに投稿された職場の飲み会での出来事です。
参加者の中に特定の宗教を信仰している人がいるという理由で、ノンアルコール飲料の種類が極端に増やされ、他の参加者がアルコールを飲むことに対して、まるで後ろめたさを感じるような雰囲気が作られたそうです。

個人の信仰や価値観を尊重することは当然です。しかし、特定の人への配慮が行き過ぎるあまり、他の参加者の自由や楽しみが制限されるのは、バランスを欠いていると言わざるを得ません。

「〇〇さんは△△教だから、○○さんの前で堂々とビールを飲むのは控えるべき」

このような暗黙の了解が形成されることは、一見すると配慮があるように見えますが、実際には他の参加者への遠慮の強要、ひいては精神的な抑圧に繋がりかねません。



3:意見表明の萎縮

さらに、意見交換の場においても、「それは〇〇ハラスメントに繋がる発言だ!」といった過剰な指摘が飛び交うことで、率直な意見を言うことが憚られるようになったという話も聞きます。

もちろん、ハラスメントに当たる発言は論外です。しかし、議論の活性化のために必要な、異なる視点からの意見や、時には耳の痛い指摘まで、「ハラスメント」という言葉で封殺してしまうのは、健全な組織運営にとって大きな損失です。

「それは女性蔑視だ!」「それは〇〇差別だ!」

このように、安易にレッテル貼りをすることで、建設的な議論が妨げられ、誰もが当たり障りのないことしか言えなくなるような状況は、多様性の真の実現、ひいてはイノベーションの創出を妨げてしまいます。

私は、ワークショップでのアイデア出しの場面で「コストや技術だけでなく、倫理的な問題もこの場では無視してください」とあえて伝えることがあります。制約条件ばかり気にしていては、斬新なアイデアなど生まれないからです。
たとえポリコレ的にアウトなアイデアであっても、それがイノベーションに繋がるのであれば、後で「どうやったらハラスメントにならないか」を考えれば良いのですから。



4:過剰なポリコレへの傾倒による「自由な表現」への制限

近年、エンターテイメント業界においても、ダイバーシティへの配慮は重要なテーマとなっています。
特にディズニーはその傾向が強く、過去の名作アニメの実写化や新作アニメにおいて積極的に多様な人種のキャスティングや設定の変更を行ってきました。
この試み自体は、現代社会の多様性を反映しようとする意図が感じられ、評価できる側面もあります。

しかし、そのポリコレへの傾倒が、一部のファンや観客から「過剰ではないか」「原作の魅力を損なっているのではないか」という批判を招いている例も見受けられます。

象徴的なのが、実写版「白雪姫」の低評価と興行的失敗です。
ヒロインである白雪姫役にはラテン系の女優が起用され、七人の小人の描写についても、ステレオタイプな表現を避けるためにCGに変更されるなど、大幅な変更が加えられました。

もちろん、キャスティングの多様性や、社会の変化に合わせて物語をアップデートしようとする試みは理解できます。しかし、これらの変更が、必ずしも観客に歓迎されているとは言えません。多くのファンや評論家から、「原作のイメージとかけ離れている」「ポリコレを意識するあまり、物語本来の面白さが失われている」といった声が上がっています。

制作側の意図は理解できるものの、それが観客の期待や作品への愛着と乖離してしまった場合、商業的な成功を収めることは難しくなる可能性も示唆されています。

これは、ダイバーシティ推進が、ともすれば「作り手の理想の押し付け」や「過去の作品への否定」と捉えられかねない危うさを示しており、結果的に「多様性を尊重する」という理念が「原作ファンへのリスペクトを欠いている」という「リスペクトがリスペクトを妨げる」という笑えない状況を生んでいると言えるのではないでしょうか。



大切なのは相互理解と建設的な対話です。

ダイバーシティは、表面的な言葉遣いや行動だけを取り繕うことではありません。真に重要なのは、異なる価値観や背景を持つ人々がお互いを理解し、尊重し合う姿勢です。

ポリコレは、社会に存在する不当な差別や偏見をなくすための重要な考え方ですが、その追求が行き過ぎると、相手への過度な配慮の強要、ひいては「リスペクト・ハラスメント」という新たな問題を生み出す可能性があります。

言葉は常に変化し、社会の状況によって意味合いも変わります。大切なのは、過去の文脈や個人の意図を考慮せず、一方的に断罪するのではなく、対話を通じて相互理解を深める努力をすることではないでしょうか。

多様性を尊重する社会を目指す上で、言葉や行動の表面的な正しさだけでなく、その背景にある意図や感情にも目を向け、建設的な対話を重ねていく必要があると思うのです。

皆さんは、この「リスペクト・ハラスメント」について、どのように考えますか?

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