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夕学レポート

2025年06月24日

中野 珠実氏講演「人間はなぜ顔に魅せられるのか」

中野 珠実
大阪大学大学院情報科学研究科 教授
講演日:2025年5月15日(木)

中野 珠実

中野珠実教授に聴く、顔を見ること/見られることの意味

この夜の演題は『人間はなぜ顔に魅せられるのか』。
一方、一昨年に出版された中野教授ご自身による著書の表題は『顔に取り憑かれた脳』。
二つの表現の微妙な違いは、どちらが正しいというものではない。おそらくどちらも正しい。
私たちの右目と左目も同じだ。それぞれの見るものは微妙に異なり、どちらも正しい。そのような両眼の働きで私たちの脳は外界を立体的に捉えることができる。
…と、目の主要な機能は「見る」ことであると思っていたのだが、実はもう一つ重要な役割が目にはあったのだ。というのが今回の講演からの学びだ。

ともあれ人間/脳が、「顔」に魅せられる/取り憑かれる存在であることは、有史以前からの歴史的事実であるようだ。
現存する世界最古の鏡は、トルコの遺跡で紀元前約6500年前の地層から出土した、黒曜石を磨いて作られたものだという。鏡を必要とする理由、つまり鏡がなければ見られないものとは、すなわち自分の顔にほかならない。なんと、文字が生まれるよりもずっと前から、人間は自己の顔を確認することに執着していた、ということになる。
その後も鏡は長らく貴重品であったが、例えば平安時代の文書には、貴族の身だしなみの一つとして「鏡を見る」ことが記されている。他の時代での扱いも推して知るべし、であろう。

鏡は人工物だが、目は人間がデザインしたものではない。しかしそこには進化上の大きな特徴がある。
他の動物と比べて、人間の目は「白目」の割合が大きい。黒目と白目の対比が際立つことは、他者からの「視線」の読み取りを容易にする。視線を読み取らせることは、自身の意図や関心、注意の対象を読み取らせることにもつながる。弱肉強食の野生環境では、これは時に致命的な結果を招く。被食者としては自らの視線が不明確であるほうが、捕食者の目を誤魔化しやすいはず。動物に白目が少ないのにはそんな理由も考えられる。

だが人間の場合、それでも白目を増やす理由があった。「社会性」である。
人間は「視線」を相互に明らかにすることで、自己の関心を相手に伝えやすくした。それは、例えば集団で狩りをするときや、事物を教え伝えていく際などにも役立ったであろう。他の野生動物に視線を読み取られやすくなるというリスクを冒しても、集団の力でその脅威を遠ざける道を、人間の目は拓くことになった。

「視線」が明らかになると、顔の「表情」が豊かになり、「感情」も伝わりやすくなる。誰が、何について、どう思っているか、顔を見ることでお互いの考えがわかる。それが、人間が社会集団を構成するにあたって、円滑なコミュニケーションを促進する大きな要因となったことは容易に想像できる。

だが、白目を増やして視線を明らかにし、感情を伝えやすくなったことで、人間には新たな悩みも生じた。それが「自分の顔は見られない」問題である。
相手の顔を通じて、相手から受け取る情報は増えた。でも自分の顔が他人にどのような情報を発しているのか、自ら肉眼で確認することはできない。水面に映す、といったぼんやりとした形で見ることはできたかも知れないが、それでは不十分だから、先述のように人間は太古の昔から鏡を創ってきたのであろう。

カードゲームの一種に、インディアン・ポーカーというのがある。
日本でなじみのあるドローポーカーでは、手札の内容は自分だけに見える状態にあり、隠された他人の手札の情報は、相手の表情や発言、行動から推測するしかない。心理的な駆け引きが重要であり、とりわけ、自分の手札の好悪がもたらす感情を表情に出さないことが求められる(ポーカー・フェース)。
一方、インディアン・ポーカーでは、自分の手札を自分に見えないように額にかざす。自分の手札の内容はわからないのに、他のプレイヤーにはそれが丸見えとなる。自分以外の情報はすべてわかるのに自分の情報だけ知り得ない、という状況に陥った全てのプレイヤーの間で、心理戦の度合いはより高まる。
鏡のない時代の人間集団を想像するうちに、そんなものを思い出した。閑話休題。

目の進化が人間と動物とを分け、それゆえ人間は鏡を欲するようになったとするならば、鏡像自己認知に関する研究はその傍証と言えるかもしれない。
人間の赤ちゃんに鏡を見せても、そこに映っているのが自分だとはわからない。それがわかるのは2歳頃から。そして、鏡に映った姿を自分だと認識した子どもは恥ずかしがる。それは2歳児が、自分ではない他者の視線を意識しながら自己像を捉えていることを意味する。
チンパンジーは鏡像自己認知ができる動物の一種であるが、恥ずかしがるようなそぶりは見せない。あくまで鏡を道具として扱う。
鏡像自己認知ができる動物は他にもいるが、そのような種でも「仲間の姿を見ながら育つ」という経験をしなかった個体は自己認知ができないという。これも示唆に富んだ話だ。

さて、現代の顔研究、視線研究である。
1950年代、ロシアの心理学者ヤーバスは人間の視線を精密に測定する装置を開発した。それを用いた実験で、視線は人間の顔に集中していること、中でも目と口に集中していることを明らかにした。最近の中野先生らの研究でも、人が映っている動画を視聴させた時の視線は、6割が目(特に向かって左側つまり相手の右目)に、2割が口に、向けられていたという。

では目や口の造作が変わると顔の印象は変わるのだろうか。
ある人物の顔画像と、それを一部加工した画像を被験者に提示し「似ている/似ていない」を判定させた実験では、目と口の造作を変えたものよりも、造作は同じだがその配置(右目と左目の距離など)を変えたもののほうが、似ていないと判定される割合が多かったという。つまり、人間の視線は目と口に集中するとともに、その相互関係からも、より重要な情報を読み取っているようだ。

鏡も写真も一般的になった現在、人は誰でも自分の顔を手軽に見られるようになった。
しかし人間の欲望はそれに満足しない。自分の顔写真をレタッチ(美加工、「盛り」)して、より「理想の自己像」に近づけようとする人が増えた。その中には、第三者から見れば「やりすぎ」と映る例も少なくない。
その脳科学的メカニズムには「ドーパミン報酬系」と「偏桃体」が影響している。もともと自分の顔や自分に似た顔には幸福感で反応する前者と、他人の顔に警戒感で反応する後者という役割の差がある中で、自分の顔画像の理想化に対しては前者が促進的に働き、他人の顔画像の理想化に対しては後者が抑制的に働く。それが、(他者から見たときの)「盛りすぎ」現象の一因であるようだ。

というわけで、目の役割は「見る」だけでなく「見られる」ことにもあった。

個人的にはヤーバスの実験の写真が印象に残っている。
真の由来は美しい女優、とも言われる女性の顔写真の上で、被験者の視線が目と口を中心に揺れ動く様子を記した線。その点と線が描く軌跡は、まるで星座のようだった。
だが、それもまた、無機物の模様にさえ「顔」を見出してしまう、人間の脳が生み出す錯覚なのだろうか。
だとしても、見つめあう二人には必要な錯覚なのかもしれない。「見る」と「見られる」の無限ループの中で相手の瞳の中に宇宙を見出すくらいでないと、その先は長くないかもしれない(いや、知りませんけど)。

ところで、間違ってもインディアン・ポーカーをはじめないように。あれは、自分一人が勝とうとするから難しいゲームになるのであって、相互に教え合うことができればゲームにすらならないのだから。もちろんそのやり取りを、言葉でなく目と目でできるようになるほどに、コミュニケーション能力を高める必要はあるわけですが。
え?言葉のコミュニケーションすら満足にできないお前が何言うかって?
まあ、そう白目を剝かないで…。

(白澤健志)


中野 珠実(なかの・たまみ)

中野 珠実
  • 大阪大学大学院情報科学研究科 教授

大阪大学大学院情報科学研究科 教授。情報通信研究機構(NICT)・脳情報通信融合研究センター(CiNet)主任研究員。
1999年、東京大学教育学部卒業。2009年、東京大学大学院教育学研究科修了。博士(教育学)。順天堂大学医学部 助教、大阪大学大学院医学研究科・生命機能研究科 准教授を経て、2023年より現職。2016年~JSTさきがけ研究員。著書に『顔を科学する』(分担執筆),『生理心理学と精神生理学 第Ⅲ巻』(分担執筆)、『顔に取り憑かれた脳』など。
研究概要:身体・脳・社会の相互作用から生まれる心の仕組みの解明
具体的テーマ:自発的な身体活動に現れる心の状態の推定、自己という概念を生成する脳の仕組み、社会性の発達とその障害機構(特に自閉症スペクトラム障害)の解明、特に、瞬きや瞳孔、顔、身体像などを対象に、心理学的手法や脳機能イメージング、人工知能を組み合わせて研究。

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