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夕学レポート

2025年10月24日

蓮池 薫氏講演「日本人拉致 ~23年目の新たな告白~」

蓮池 薫
拉致被害者・著述家
新潟産業大学経済学部 特任教授
講演日:2025年10月7日(火)

蓮池薫さんに聴く、被害当事者から見た日本人拉致問題の今

「1978年7月31日-」
その日付を口にするとき、蓮池さんの人生は47年前に戻る。
「彼女と二人、海岸に腰掛けてタバコを吸っていた。すると『火を貸してほしい』と男が近づいてきた。流暢な日本語だったが、それは北朝鮮の工作員だった。その男に気を取られている間に、数名の戦闘員が後ろから忍び寄ってきた。気づいた時には私たちは囲まれていて、その場から暴力的に連れ去られたのです」
紛れもない当事者の口から、その瞬間の、生々しい状況が語られる。つい昨日の出来事のように。

講演は、日本人拉致問題の概要を俯瞰するところから始まった。
1977年から1983年頃まで、北朝鮮による日本人拉致が相次いで発生した。蓮池さんは、のちに妻となる祐木子さんとともに、1978年に新潟県の海岸で拉致された。
1987年、大韓航空機爆破事件で逮捕された北朝鮮工作員の証言から、日本人が拉致され工作員教育に協力させられていることが公式に判明する。
1997年、横田めぐみさん生存情報に端を発し、拉致被害者家族連絡会が結成される。その活動により日本の世論でも拉致問題への関心が高まる。
2002年、日朝国交正常化の機運の中、当時の小泉首相が訪朝。北朝鮮が拉致への関与を認め、被害者のうち蓮池さんら5名の帰国が実現。しかし8名が「死亡」とされた。
2004年、小泉首相が再訪朝、蓮池さんの子ら、被害者の家族が帰国。
以後2025年の現在まで、拉致問題に関して目立った進展はない。

北朝鮮の初代指導者・金日成の後継者争いの過程で、後にその地位を継承する金正日の指示により、多数の外国人が拉致された。その狙いのひとつが外国人工作員、つまりスパイの養成であった。
首尾よく第二代指導者の地位に就いた金正日は、経済的困窮を打破するため日本から戦時賠償金を得ようと画策したが、その障害となったのが拉致問題の存在だった。そのため、自身の責任は隠蔽しつつ、拉致の事実は認めて一部の被害者を一時帰国させることで日本の世論を納得させようとした。

その後、「死亡」とされた8名に関する北朝鮮の説明が捏造であることが、帰国者の証言や「遺骨」のDNA解析等で判明し、日本政府は態度を硬化。一方、「一時帰国」させたはずの帰国者5名が「北には戻らない」と言ったことで、北朝鮮側も態度を硬化。加えて、北朝鮮では核ミサイル開発が進展し、実権も第三代指導者・金正恩に移るなど、地政学的な情勢が大きく変化。2004年以降、拉致問題について北朝鮮は「解決済み」との立場を取り続けている。

次に、蓮池さんの目線で事件を辿ってみる。
大学生だった1978年、工作員によって拉致された蓮池さんはすぐに祐木子さんと引き離され、平壌郊外にある招待所という名の監視施設に入れられる。スパイ学校に入る準備として朝鮮語の自習を強制されるが、一年経っても入学の話はないまま、突然「結婚しろ」と言われ祐木子さんに引き合わされる。二人は再会を喜び、1980年、北朝鮮での結婚生活を始める。

このように処遇が変化した背景には、外国人拉致被害者による相次ぐ脱走騒動があった。外国人をスパイにしても結局は使えないと認識した北朝鮮は、自国の若者をスパイに養成する方針に転換。外国人は外国語教育要員とし、脱走防止のために結婚させ家庭を設けさせた。蓮池さんも約9年間で12人のスパイ候補生に日本語を教えたという。しかし、先述の通り、逮捕された北朝鮮工作員が「日本人に日本語を教わった」と証言したのを契機に、外国人による外国語教育も終了。蓮池さんの仕事は日本語資料の翻訳などに変わった。

蓮池さん夫妻は二人の子に恵まれたが、子どもたちにすら「自分たちは在日朝鮮人だった」と出自を偽りながら暮らしていた。日本には一生戻れず、このまま北に骨を埋めることになる。そう思っていた矢先、翻訳の仕事中に目にした記事で、日本で「家族会」が結成されたことを知る。記事に付された写真の中に肉親の懐かしい姿を見つけ、望郷の念は募った。また、北朝鮮側の監視者の態度の変化から、状況が動きつつあることも感じていた。

国交正常化交渉の過程で、北朝鮮は拉致を認め、被害者を日本政府代表団に引き合わせることとした。しかし北朝鮮は拉致被害者全員を表に出すつもりはなかった。日本政府に『自分の意志で北朝鮮に残る』と言ってくれそうかどうかで「線引き」し、蓮池さんら5人だけが「生存者」として面会に臨むことができた。
その後、紆余曲折を経て、蓮池さんら5人は2002年、「生存拉致被害者」として日本に一時帰国することになった。

実際、この時点での蓮池さんは、一週間後には北朝鮮に戻るつもりだった。しかし、政府のチャーター機で帰国し、再会した肉親や友人から粘り強い説得を受けるうち、蓮池さんの心境に変化が訪れる。「日本に残ろう。残って子どもたちが来るのを待とう」。そう説く蓮池さんの言葉に、祐木子さんは当初強く反発したが、最終的には帰国者5人は揃って「北朝鮮には戻らない」と意思表明した。以来、平壌に残してきた子どもたちはどうなるのかと不安な日々を過ごしながら、しかし2年後には子どもたちを無事に日本に迎えることができた。

帰国後しばらくは、自分が何かしゃべれば北朝鮮に残っている拉致被害者に迷惑がかかるかもしれない、という思いから蓮池さんは口をつぐんでいた。しかし、事態に進展がない中で、やがて「発言し、知ってもらい、世論を動かすことが重要」という考えに変わり、現在の活発な著作活動・講演活動に至っている。

そんな蓮池さんによる、拉致問題に関する地政学な見立て。
まず日本政府に求めるのは、拉致問題を取り巻く世界情勢の正確な把握である。北朝鮮の関心は金銭ではなく「核」にある。ロシアから小麦粉もエネルギーも輸入できる現在、経済的援助は交渉のカードとならない。トランプ政権が、米国まで届かない短距離ミサイルの保有には融和的な姿勢を示す中で、日本が「半島の完全な非核化」にこだわることは北朝鮮にとってプレッシャーになりうる。

北朝鮮は拉致問題を長期戦に持ち込もうとしている。時が経ち、関係者が減り、世間の関心が薄れることを期待している。そうはいかない、日本では拉致問題は決して風化しない、ということを北朝鮮に示し続ける必要がある。特に、若い世代に拉致問題への関心を持ってもらい、何が起こったのかを具体的に知ってもらうことが大事。今日の講演会も含め、様々な活動の様子は、やがて北朝鮮に伝わる。そのような世論のプレッシャーを背景に、日本政府は活動の先頭に立って北朝鮮との交渉に当たることが望まれる。

このような冷静な分析と戦略が、第三者でなく当事者の蓮池さんの口から発せられることの意味は重い。実体験に裏打ちされた議論に、その説得力は増す。
思えば、歴史の教科書に載っている事象のほとんどは、自分が生まれる前の出来事だ。逆に、自分が人生で直接見聞きした出来事のほとんどは、教科書に載ることもなく歴史の波間に消えていく。
北朝鮮による日本人拉致問題は、その数少ない例外だ。発生からまだ半世紀にも満たないのに、現代日本の重大事件の一つとして教科書に載り、若い世代へと伝えられている。拉致された時の横田めぐみさんは13歳だった。それに近い年齢で、今の日本の若い世代はこの事実を教わることになる。

歴史の教科書に載ったからと言って、拉致問題は過去のことではない。今回、拉致被害の当事者である蓮池薫さんが夕学の場で語ってくださったのは、決して「歴史上の話」ではなかった。47年を経てなお生々しく再現される拉致の瞬間。帰国の夢を自らに禁じながら過ごした24年間の北朝鮮での生活。そして帰国後の23年間、残された拉致被害者のために少しでも事態を進展させようと、考え、語り、行動し続ける日本での日々。そのどれもが、蓮池さんにとっては「いま・ここ」のことなのだ。

そして想う。
私が書いたこの文章を、北朝鮮当局は読むだろうか。あるいは、かつての蓮池さんのように、今もなお北朝鮮に残る拉致被害者の目に何らかの形で触れることはあるのだろうか。
実際にはその可能性は極めて低いだろう。でも、蓮池さんの講演を聞いたいま、それは決してゼロではないと思う。ほんのわずかでも可能性がある限り、今の私にできる精一杯のこととして、最後に記しておきたい。

日本は、私たちは、あなた方を決して忘れていません。
いつか必ず会える、そう信じています。それまで、どうかお元気で。

(白澤健志)


蓮池 薫(はすいけ・かおる)

蓮池 薫
  • 拉致被害者・著述家
  • 新潟産業大学経済学部 特任教授

1957年新潟県柏崎市生まれ。中央大学法学部3年在学中、帰省した1978年に拉致され、24年間、北朝鮮での生活を余儀なくされる。帰国後、1年間の市役所勤務を経て、新潟産業大学嘱託職員・非常勤講師として働くかたわら、中央大学に復学。2005年には初の訳書『孤将』を刊行。2008年3月復学していた中央大学卒業、2013年3月新潟大学大学院博士前期課程修了、2013年4月新潟産業大学経済学部准教授、2023年4月より現職。
訳書『ハル 哲学する犬』『私たちの幸せな時間』『トガニ』のほか、キム・ワン『死者宅の清掃』(実業之日本社)、 2024年刊行キム・フン『ハルビン』(新潮社)など 約30冊。
著書 共著1冊を含め、6冊。うち2009年6月刊行の『半島へ、ふたたび』(新潮社)は新潮ドキュメント賞を受賞。2012年10月に『拉致と決断』(新潮社)、2025年5月に『日本人拉致』(岩波新書)を刊行。

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