ピックアップレポート
2025年12月09日
阿刀田 高著『90歳、男のひとり暮らし』
些細なれども日常の+と−
──なんで? そんな馬鹿な──
鏡の中が戸惑いから苦笑に変わった。指先を見つめた。老いはこんなところにも忍び込んでくるらしい。
──ネクタイが結べない──
たまたま背広を着る必要があって久しぶりにネクタイを一本取り出し、ワイシャツの首に巻いて締めようとしたら、これがスムーズに運ばない。
思えばサラリーマンとしてスタートして十余年、その後も折々に、つい四、五年前には甲府の図書館の公務に関わりがあってネクタイは常用していたのだ。私にとってネクタイはむしろ好きな日用品であった。ダブル・ノットを常としていた。それがむずかしい。
とりあえずシングル・ノットで締め、次に、
──ああ、こうだった──
往年の習慣を思い出したが、胸に垂れ下った二本のバランスが悪い。昔はこんなことけっしてなかった。ス、スイのスイ、なんのためらいもなく奇麗に結んでサッと上着を着たものだった。
──世話になったな──
あらためて二十本ほどぶら下がったネクタイたちを眺めた。
ネクタイには思いのほか強い好みがあった。拘りがあった。プレゼントされたものは大抵好みに合わない。おしゃれなどあまり気にかけない人生だったけれど、ネクタイだけは自分で選んだ。
高価な品を求めたこともある。海外旅行では必ずと言ってよいほど買い求めた。例えば一本二万円くらい……。でもこれは着用したのは十回くらいのものだったろう。
──一回締めると二千円か──
みみっちいことを考えたこともあった。今、眼の前にズラリとぶら下がった数十本はみんな一締めごとにそこそこの金額だったはず。それが今や、
──兵どもが夢の跡──
少し大げさながら、この感が漂う。
ふと思い出して……同じ洋簞笥の下に納めてあるので、
──これは絶対駄目だろうな──
そう念じながら角帯を一本取り出してみた。十数年前には時折和服を着用していた。キリッと帯を形よく締めて、いい気分……のはずだったが、今は途方に暮れて、
──どうするんだったっけな──
早々にあきらめた。
そう言えば、これも十数年前、着物を着なくなったとき、
「このごろ、お召しにならないわね。どうしてです?」
と女人に質ねられてちょっぴり見栄を張った。
「女がいなくなった」
「えっ?」
「半襟をつけてくれる女がいない」
半分くらい本音だった。あれは結構厄介な仕事なのではあるまいか。汚れたら取り替えねばならないし、汚れなくても趣向がからむ。大切な美意識だ。なのにわざわざ呉服屋に頼むことではなさそうだし、なにかうまい方便はあるのだろうが、しかるべき女性がいてくれると嬉しい。不自由していたのは本当だった。今はもちろんどうにもならない。そもそも角帯を締めることなど、もはやネクタイ以上に無用の技術である。
先日コートのボタンが取れた。胸元の一番大切なボタンである。しかし、
──これは大丈夫──
昔、昔の大昔、少し前まで小中学生でも竹槍持ってゲートルを巻き、兵士の真似ごとに励んでいたのに急に軍備は放棄、学校の時間割に家庭科が加えられ、裁縫をすることになった。確か初めは雑巾を縫うことだったろう。あの時しっかりと覚えた。長い人生でボタンつけだけは何度か復習を試みている。
針に糸を通すのはほどよい器具が備わってある。糸を長めに引いてコートの胸にボタンをキリキリと縫いつける。もう死ぬまで、死んでからも取れないようにしっかりとつける。本当はコートの生地とボタンの間に一ミリくらいのゆとりを持たせるほうが正式らしいが、そんなことはできない。カチカチにつけても実用には役立つ。
──やったね──
和服の襟替えとは大分レベルの違う作業だが、少しく満足を覚えた。
──そう言えば──
衣服についてもう一つ不自由が残っていた。立派な、高価なジャンパーを入手したのに前を締めるチャックがうまくいかない。一番下のところで左右に分かれている歯を嚙み合わせるはずなのに、これがどうにも不細工で何度試してもうまくはまってくれない。私が不器用なせい、とも考えたが、とにかく何度も、どう試みても駄目なのだ。
──欠陥商品ではあるまいか──
取り替えや返品の手続きは面倒だろうし、そのままハンガーにぶら下げ、思い出してはいろいろやっている今日このごろなのだった。せっかくコートのボタンはうまくいったのに、これを思い出すとひどく不愉快になってしまう。
話は飛ぶけれど、過日のNHKのテレビで、ブロッコリーのうまい食べ方を教示していた。ブロッコリーはほとんど毎日食しているのだが、あの太い茎の部分、
──もったいないな──
と思いながら切り捨てていたのだが、あれは栄養価も充分、おいしい食べ方もあるんだとか。しばらくはテレビを見入っていた。方便はいろいろあるようだが私にはむずかしそう。とにかく茎の外皮のあたりを切りむき、芯の部分だけを取れば柔らかく調理ができるらしい。後日の知恵として心に留め、目下待機中である。
老年の独り暮らしは、どんどんと日常の知恵を失っていくが、少しは新しく覚えることもあるみたい。このマイナスとプラスは、マイナスのほうが断然大きいことは疑いないけれど、たまにはプラスもあったりして、それが少し嬉しい。茶碗蒸しもこのごろなんとか作れるようになった。
『90歳、男のひとり暮らし』(阿刀田高著、新潮社)より著者と出版社の許可を得て抜粋・掲載しました。無断転載を禁じます。
※新潮社の読書情報誌『波』で、同じ高校の先輩後輩でもある小説家 黒井千次さんとの対談もお読みいただけます。
「90代の歩き方」阿刀田 高 × 黒井千次

阿刀田 高(あとうだ・たかし)
小説家
慶應MCC agora講座「阿刀田高さんと小説を読む」シリーズ講師
昭和10年(1935年)東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業後、11年間、国立国会図書館に勤務。その後軽妙なコラムニストとして活躍しながら、短編小説を書き始め、昭和54年『来訪者』で日本推理作家協会賞、短編集『ナポレオン狂』で直木賞を、平成7年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。ユニークな短編の書き手として知られる。また、エッセイとして『知っていますか』シリーズ、小説『闇彦』、『知的創造の作法』、『私が作家になった理由』、『小説作法の奥義』など多数。
国語政策への寄与などに対して2003年紫綬褒章、2009年旭日中綬章受章、2018年文化功労者顕彰。日本ペンクラブ第15代会長、1995年から2013年まで直木賞選考委員、2012年から2018年3月まで山梨県立図書館館長を勤めた。
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