今月の1冊
2026年01月13日
岡根谷 実里著『世界の台所探検 料理から暮らしと社会がみえる』
台所探検家という肩書を聞いたことがあるでしょうか。
著者 岡根谷実里さんは、自らをそう名乗り、世界各地の家庭の台所を訪ね歩いています。料理を学ぶためでも、レシピを集めるためでもありません。台所という、プライベートでごく日常的な空間に身を置くことで、そこに生きる人の暮らしや、その背後にある社会のあり方を読み取ろうとする試みです。
インドネシア、タイ、インドといったアジア。キューバやコロンビアの中南米。ヨーロッパではコソボ、モルドバ、さらにはウクライナ。アフリカではスーダンやボツワナ、そしてイスラエル、パレスチナ、ヨルダンといった中東まで。いわゆるメジャーな土地に限らず、岡根谷さんは世界各地で「家ごはん」を味わっていきます。難民キャンプや屋根のない屋外の台所も登場し、友人や知人を頼ってホームステイを重ねながら、旅先のごく普通の家庭の、ごく普通の台所で日常の食生活を共にします。
今や日本でも世界各地の料理を口にすることはできますが、市井の人々が日々食べている料理は、旅行者でもなかなか出会えないものです。店で食べる料理とは異なる匂いや雑多さ、人と人との距離感。その空気感が、文章だけでなく、家族で囲む食卓の写真や紹介されるレシピからも伝わってきて、どこかあたたかさを覚えます。
本書を読み進めながら、私は自然と、ある一つの「台所」を思い出していました。
昨年の秋、数年間通っていた料理教室の先生が鬼籍に入られました。先生のお宅で開かれていたその教室は、単なる「料理を学ぶ場」ではありませんでした。台所に立つ所作、道具の整え方、季節の食材との向き合い方、無駄を嫌いながらも手間を惜しまない姿勢。その一つひとつから、料理を超えて、生き方や暮らし方、さらには先生ご自身の思想のようなものまでが、静かに、しかし確かに伝わってくる場所でした。
先生は折に触れて、こんな言葉を口にされていました。
「人に喜んでもらえる料理を作りなさい」
「人を招くことを、億劫がらずにね」
台所とは、単に食事をつくるための機能的な空間ではありません。その人が何を大切にし、どのような時間を生きてきたのかが、驚くほど率直に表れます。使い込まれているがよく研がれた包丁、繰り返し磨かれた鍋、理にかなった動線。台所は、住む人の価値観が表現された、日々の選択が積み重なった生活の結晶なのだと、私はその教室で教えられました。
本書で描かれるのは、決して有名なレストランや洗練された食文化ではありません。むしろ、慎ましく、時に厳しい生活のなかで、人々がどのように食を成り立たせ、暮らしをつないでいるのか。その最前線としての「台所」です。
そこから読み取られるのは、気候や宗教、経済格差、家族のかたちといった社会構造そのものです。台所は、個人の空間であると同時に、その社会の縮図でもあることを雄弁に語ってくれます。
じゃがいもの形なんて本当に何でもないことなのだけど、そんな些細なことすらも見逃さずに楽しみに変えるのが、家庭の台所ならではで、すごく好きなのだ。
その土地にしかない特別な食材ではなくても、とびっきりおいしい料理でなくとも、どこにでもあるじゃがいもで、あんなに楽しい時間が生み出せるのだ。
これは、ロシアによるウクライナ侵攻よりもずっと前。岡根谷さんが東ヨーロッパをバックパックで旅していた際、キエフの家庭の台所で、“ヨーロッパのパンかご”とも言われるほどの農業国で肥沃な土地に育つじゃがいもの料理をふるまってもらったときの一節です。その場では政治や国際関係、経済の厳しさについての会話も交わされていましたが、台所に立った途端、家族が無邪気に、楽しそうに、いつも食べている名もなきじゃがいも料理を作ってくれたことが、強く印象に残ったことが記されています。
名物ならばレストランに行けばいい。このじゃがいもから生まれる“料理の楽しさ”は、絶対に家の台所でないと味わえなくて、これこそが家庭料理の魅力なのだと思う。
台所探検で出会いたいのは、その家庭で笑顔を生む何でもない料理。目を引くからではなく、その人が楽しんでいる料理に、これからもたくさん出会っていきたい。
岡根谷さんは、台所に立つ人々の言葉に耳を傾け、手の動きを見つめ、料理から立ち上がる時間や空気までも含めて記録しています。それは、異文化を表層的に知り、消費するのではなく、台所という場で共に作り、同じものを食べ、その時間を楽しむことで人を理解しようとする、誠実な姿勢にほかなりません。私が料理教室の先生の台所で感じていた、あの静かな学びの感覚とも、どこか通じ合うものがありました。
タイパやコスパといった効率や成果が重視されがちな現代にあって、台所はしばしば「省略すべき場所」として扱われがちかもしれません。忙しさの中で足元を見失いそうになったとき、自分自身の「台所」をもう一度見渡してみる。今年もそんなひとときを大切にしながら、日々を暮らしていきたいと思う一冊となりました。
(保谷)
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