KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2012年04月26日

西村 佳哲「かかわり方のまなび方」

西村 佳哲
リビングワールド代表、働き方研究家
講演日時:2012年4月26日(木)

西村佳哲

西村佳哲さんに『まなび方とのかかわり方』の話をきく

 
西村さんは自らの仕事を「つくる」「書く」「教える」の3つに分類している。
ではそれぞれの仕事で「かかわり」あっているのは、誰と誰だろうか。

「つくる」。デザイナーとして、西村さんは数々の独創的な作品を生み出してきた。そこで大切にされているのは、自らの実感だ。内面、または無意識といってもいいかも知れない。心の湖底に佇む自分の想いを、表層で世界と交わる自分が的確に受けとめて形にできた時、人々を唸らせる表現がそこに姿をあらわす。

「書く」。西村さんの著作を特徴づけているもののひとつがインタビューである。関心の赴くまま、どこへでも行き、話を聞く。ひとつひとつは断片にすぎないそれらインタビューのストックから、エッセンスを並べ、積み上げ、束ねながら、西村さんは自らの思考を構築してゆく。そのインタビューの場にあるのは話し手と聞き手の対話だけではない。話し手と、話し手自身の内面との対話。聞き手と、聞き手自身の内面との対話。それぞれのプロセスが繊細に、丁寧に扱われる中で、話し手と聞き手の対話は深さを増していく。インタビューの場で徹底的に相手に寄り添った上で、西村さんは必ず自分の軸に立ち返り、それを掘り下げて、書く。

「教える」。美大の教室でデザインを教える。そこにあるのは教師と学生の対話だろうか。そうでないことを西村さんはすぐに見て取った。対話は、学生と、学生の内面との間で行われる。教師はその対話が豊饒なものになるよう場を設え、見守り、そっと寄り添うことしかできない。他人の「つくる」を間接的に支援するという、「教える」ことの困難さに惑いながら、西村さんは試行錯誤を重ねる。

一見異なる3つの仕事に通底しているもの。それが何なのかは、「よいインタビュアーの条件」について西村さん自身が語ったことがヒントになるだろう。
「話をうまく引き出せるとか、良い質問を次々に繰り出せるとか、そういったことは重要でない。必要なのはただ、相手の話を『きちんと聞ける』こと。それだけです」

自らの内面を「聴く」。話し手の話を「聞き」、話し手を通して話し手の内面をも「聴く」。
その達人である西村さんも、学生に学生自身の内面を「聴かせる」ことはできない。できるのは、ただ、教師である自分が自らの内面を「聴く」その姿を見せること。それを目の当たりにすることで、学生もまた自らの内面を「聴く」ことに目覚め得る。そのような困難な作業をひとつずつ積み重ねていく中で、西村さんの「教える」は、単に「つくる」を「教える」のでなく、「教える」を「教える」という新たな地平に到達することになるだろう。

今回の演題にもなっている西村さんの著書、『かかわり方とのまなび方』。その中で私は思いがけない”再会”をすることになった。
苅宿俊文さん。今からもう二十年近く前のこと。私は教育学部で教育心理学を修める学生として、卒論執筆の材料集めに苦労していた。そのとき指導教官が紹介してくれたのが、当時まだ公立小学校の教師だった苅宿先生だった。

初めて訪れた苅宿先生の教室。子どもたちの机は様々な方向を向いて並べられていた。あちらこちらで、子どもたちは時にグループになり、時に一人で、各自の課題に取り組んでいる。先生が一方的に教えるのではない。子どもが、自らの関心に基づいて、自ら環境をデザインする、参加体験型の学習スタイル。今なら「ワークショップ」という言葉を使いたくなるような学びの場が確かにそこにあった。賑やかに、活発に自主的な協働学習を進める子どもたちの姿に、私は興奮した。小中高、殆どの時間を黒板のほうを向いた一斉授業で過ごしてきた私の目に、その教室は桃源郷のように映った。

苅宿先生にひとしきり話を聞いた帰り際、先生は子どもたちに机を並べ変えるよう指示した。それは平凡な一斉授業のスタイルだった。えっ、先生はこういう授業もするんですか?私の問いに、先生はこう答えた。「一斉授業には一斉授業の良さがあります。大事なのは、参加体験型の授業と一斉授業、両者をきちんと使い分けることです」。そう言って国語の授業を始めた先生を、私は少し複雑な思いで見つめていた。

こう書き連ねてはいるが、後段のやりとりは、実は私自身がまったく忘れていた対話だった。思い出したのは、西村さんのインタビューの中で、苅宿先生がまったく同じことを言っていたからだ。当時の私は、私自身の聞きたいことしか聞いていなかった。まったく「きちんと聞け」ていなかったのだ。西村さんの本に出会わなかったら、私はそのことに一生気づかなかっただろう。

今、苅宿先生は、先述の私の指導教官-佐伯胖先生とともに、大学でワークショップ・デザインを教えている。そのことは、結局教職さえ取らずに卒業した私の関心が、本当はどのあたりにあったのかということを今になって照らしてくれる。

西村さんが昔、ある熟練のファシリテーターから聞いたという言葉が思い出される。
「同じ場を体験し、場で起こったことを振り返る時、内容の話しかできない人がいる。そういう人はファシリテーターとしてあまり見込みがない。場で起こっていたことのプロセスに自然と意識が向く人は、いいファシリテーターになれる可能性がある。」

おそらく私が苅宿先生の教室で見るべきだったのは、机の向きといった表面的なことではなかった。先生がいかに場に意識を向け、場をホールドし、その中で子どもが自由に動くスペースをつくりだしているかということだったのだ。

『かかわり方のまなび方』という本。そして、「かかわり方」にかかわり続ける西村さん。
この、書棚に収まる小さなワークショップで、見えないファシリテーターにファシリテートされながら、私は、いつしか見失っていた「まなび方とのかかわり方」を、みずからの手に取り戻して行こうと思う。
聞けていないものを聞き、見えていないものをきちんと見るために。

(白澤健志)

メルマガ
登録

メルマガ
登録