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夕学レポート

2017年12月01日

温故知新~米倉教授の未来への羅針盤~

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坂の上の雲はもう見えない?

ここ数年、会社の調子が悪い。一向に回復しない業績資料を眺めながら溜息をつく時、よく思い出すのが大学院時代の「企業家史」の講義だ。
坂の上の雲を追いかけ、時代の風を背に受けて発展を続けた、そんな近代の経営者たちの強運が羨ましいなぁ…と、しばし夢想に逃避する。
そんな私の寝ぼけまなこを一気に醒ましてくれたのが、今回の米倉誠一郎教授の講義だった。
近代の発展については「殖産興業政策の追い風のお蔭だろう」「圧倒的資金力の財閥があったからだろう」といった短絡的な見方をすることで、今のこの我が身の不遇を慰めがちになるが、その見方は大間違いだ。
明治維新前後の変化の波は、今我々が直面している”第4次産業革命”などとは較べ物にならないほどの大津波だった。大政奉還によって社会制度が大転換を遂げる中で、欧米列強による帝国主義・植民地主義の横行、鎖国による産業技術の立ち遅れ、国家財政や貨幣制度の不備など、あらゆる危急存亡の事態が同時に押し寄せて来ていた。
当時の日本が、それらを克服するだけでなく、瞬く間に列強と肩を並べるほどまでに発展を遂げた理由は、単なる時の運や何かのお蔭などではない。強固な意志と主体性を持った日本人たちが、創造的にそれらを成し遂げたのだ。

イノベーター史の伝道師の情熱

“失われた20年”にすっかり気勢を殺がれた最近の世論は、「日本人はクリエイティブではない」とか「結局、欧米のコピーキャットだ」と、すぐに自虐する。しかし歴史を振り返ってみると、幕末以降の日本には、危機的状況に置かれても創造的に対応できる”イノベーター”が、綺羅星の如くにいたのである。
「何としてもこの事実を伝えたい。ということで、卒論でこの時代を手がけて以来40年の構想を経て、一橋大学を退官するにあたり集大成として本にもまとめたんです」と語る米倉教授。その姿は”退官した歴史家”というイメージからは程遠い。
エネルギッシュな語り口。演壇狭しと動き回るしなやかな足運び。時には演壇を駆け下りて受講者の席の間まで歩み寄り、「あなた、どう思う?」と問いかける。真っ白なシャツとグレーのズボン姿だけを見れば、まるで学生のような佇まいだ。

現代にも通用する創造的対応

経済学者シュムペーターは1947年、『The Creative Response in Economic History』の中で、経済理論において最も適切に評価されてこなかったことは「外的変化に対応する仕方には”違い”がある」ということだ、と書いたという。単なる順応と創造的対応との違いがあり、情報感受性のある者のみが、Creative Response(創造的対応)を果たすことができるというのだ。
幕末から明治にかけての津波のような大変化に際し、そうした情報感受性を頼みに、思いもよらない独創性と先見性とで創造的対応をした例として、米倉教授が最初に紹介したのが、長崎の官吏で西洋砲術家の高島秋帆だ。
秋帆は英国軍艦フェートン号が長崎湾に侵入した事件を機に海防の重要性に着目。西洋流砲術を居留中のオランダ人たちから学ぶとともに、最新式大砲を自ら輸入する。そしてそれをリバースエンジニアリング(分解模造)して独自に大砲を作り、各藩に販売もする。さらに脇荷貿易(個人輸入)で調達したさまざまな兵器を転売すること等で大きな利益を上げ、その利益で洋書や時計・磁石・望遠鏡等の貴重品を手に入れ、さらに研究を重ねて商売を拡大するといったアントルプルヌア(企業家)のセンスもあった。
秋帆の目的が金儲け自体ではなかったことは、アヘン戦争勃発の報に接して自ら幕府に『洋砲採用の建議』を上申したことからも明白だ。この建議が閣老 水野忠邦に採用され、出府を命じられた秋帆は江戸郊外の徳丸ヶ原で高島流砲術の大規模演習を披露した(この徳丸ヶ原は、後に高島秋帆の名にちなんで”高島平”と改められた)。これを機に幕府は軍備の近代化に着手することになったのだ。
一方、後のペリー来航に際し、攘夷にいきり立つ幕閣らに対して秋帆は、「和平開国・通商第一」が最も賢明な選択だと上申。進歩的な開国思想で、その後の日本の方向性へと導いた。「小国は海外貿易によって国を建てるべし、有用な物を無用の物で替えるしたたかな交易が重要。海外の良い物は積極的に取り入れ、自国の足りない部分を補うべし」という秋帆の主張は実に先進的で、現代日本にも通用する状況認識と論理性を備えていた。

歴史の中に未来を視る

名もない佐賀藩士で攘夷を唱えていただけの志士だった大隈重信が、わずか数年のうちに国際派官僚に育ち、政府の経済政策を一から作り上げていったストーリー。版籍奉還で失業する士族たちの身分を公債で買い上げ、それを資本に企業家に転身させるという革新的な政策デザインに呼応して本格的な株式会社の嚆矢を作った小野田セメント創業者 笠井順八のストーリー。三井財閥・三菱財閥の創業者たちの知られざる若き日の蛮勇と”人”を通じた多角化のストーリー。海外での研究経験から国産の純粋研究にとてつもない未来を描いて理化学研究所を設立した科学者 高峰譲吉と、それを新興財閥へと育て上げた三代目所長 大河内正敏のストーリーなど、従来の日本史では語られてこなかったイノベーティブな逸話が次々と飛び出す(詳細は『イノベーターたちの日本史』[2017年4月刊・東洋経済新報社])。
グローバル化の急速な深化や第4次産業革命の波に見舞われている現代の日本は、明治初期と似た状況だ。当時の日本のリーダーたちは極めて若く、情報収集手段もごく限られていたにも関わらず貪欲に知識を求め、進んだ技術に学んだ。情報感受性が非常に高く、変化に際して創造的対応で臨んだ。
「対する近年の日本のリーダーたちはどうだ。内向き志向・大衆迎合的で、新時代に創造的に対応しようという気概がない」
「今や世界最大のタクシー会社であるUber(ウーバー)を規制や業界保護で排除しようとしている。こんなことだから需給バランスが低位均衡してしまい不況から抜け出せない」
「ビジネスの中心がモノからコトに移っている今、足りないのは供給ではなくマッチングなのだから、規制緩和をすればイノベーションは起きる」
「教育政策でも、21世紀型への脱皮を図ろうともせず”教育無償化”などという愚作を打ち出す。無償化が創造的対応と言えるのか?今こそ、生きる力がつく教育、多様性を活かす社会を創るための教育が必要なのに…」
残り時間を気にしながらも米倉教授は「これだけは言いたい!」と、次から次へと現代日本の諸相を舌鋒鋭く斬りまくる。
米倉教授の熱い言葉を聞いているうち、温故知新という言葉が浮かんだ。歴史学者といいながら、米倉教授は過去を観る以上に未来を視て来られたのではないか。40年にも及ぶ構想を費やして、歴史の中に、日本の未来への指針を見出されたのだろう。
「失敗を恐れない!必ず、どの時代にも、どんな過酷な状況でも、パラダイムチェンジで伸びてくる会社があった。その創造的対応に学ぶんです」
半ば叫ぶような米倉教授の最後の言葉に、胸が震えるほど鼓舞されて会場を後にした。
(三代貴子)

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