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夕学レポート

2020年01月14日

西田 亮介「ソーシャルメディア時代の政治と民主主義~その現状と課題~」

西田 亮介

知性の終わり

数年前から言論を取り巻く環境が大きく変化したことを感じている。数十年前はもっと大らかな言論環境があったはずなのに最近では何か発言するとすぐ攻撃に晒されるようだ。こうした思いを抱くのは私だけではないようで指摘する識者もおり、灘中学校の校長が歴史教科書の採択を巡る実体験の公表もした。背景にネットによる匿名かつ集団的攻撃が容易になったことがあるだろう。そこへきてトランプ米大統領の不可思議な言動がある。大統領選でのロシアの介入も取り沙汰された。大変な時代だ。いつの間にか私達は窮屈でおかしな縛りの中にいる。何とも言えないモヤモヤした気持ちと危機感で今回の講演に申し込んだ。
西田亮介氏の演題が「ソーシャルメディア時代の政治と民主主義」であったのでアメリカ大統領選でのロシア介入疑惑やフェイクニュース等を中心に語られるのだろうと思った。確かにそうしたことも取り上げられたものの、ご本人が初めに断っていたように講演内容は概況的でより高い視点、民主主義の現代的問題を大きな軸として語られた。この構成はとても良く、ともすれば個々の事象を追うだけで終わりがちになるところを世界全体、歴史的な変化の一環として捉えられた。


冷戦の終わりによって『歴史の終わり』の予想とは異なる、より多様な問題を世界は抱えることとなった。東西の重しが取れ、冷戦下とは異なった軸で問題の活発化がしているのだ。異議申し立てをする主体もNGOなど多種多彩になる。そうした世界の変化と同時にIT技術も大きく発達し「シャープパワー」が登場する。シャープパワーとは例えば先のアメリカ大統領選におけるロシアによるネット介入のような力のことをいう。これまでとは異なりより直接的、より容易に他国の政治へ介入できるようになってきた。
「post-truth(脱真実的な)」という20世紀半ばから使われ始めたこの言葉は、日本では「『客観的事実』が重要視されない社会」の意味として用いられている。西田氏は日本の状況として憲法改正に伴う国民投票運動に対する国内外からの介入の可能性、政治の情報化の高度化と第四の勢力としてのジャーナリズムの勢力不均衡と機能不全、マスメディアに対する過剰批判、ネット、改革、イノベーションへの過剰期待などを挙げた。何ともまあ社会を支える足場は脆くなっている。
そこから「情報過剰と民主主義を巡る諸問題」に焦点が当てられたが、こうした状況では「公共概念」を作るのが難しくなっていると指摘した。それはそうだろう。今や新聞やテレビ以上に私達が情報を得ているネット情報は閲覧履歴や時間、属性などによりカスタマイズされたものなのだから。紙の新聞のように否が応でも関心のない記事の見出しが目に入るのとは違う。どこにいても「自分好みの」記事しか目に入らないようになっているのだ。世の中はどんどん曖昧に、その結果として共有されるもの、人々を繋ぐものが少なくなっていく。つまりは同意の政治である民主主義の危機ではないのだろうか?
発信側について西田氏は、日本政治におけるネット活用の事例、とりわけ自民党と官邸について取り上げる。自前主義で内部向け発信が中心の共産党や公明党と異なり、自民党はプロに任せて計算された一般向けのものになっていて女性誌とのコラボ企画、総裁選におけるイメージ戦法など面白い事例が紹介された…のだがいずれも「イメージ戦略」なのだ。何か訴えたい政策が確固として前面に出されているわけではなく、雰囲気としての何か。洗練されているけれどもしかしそれは政策ではないようだ。以前のインターネットではテキスト(文字)が主流であったが、回線の大容量化と低価格化に伴い非テキストSNS台頭の時代となり、テキストは従の扱いとなった。ネットのメインユーザーである女性は政治家にとって未開拓市場である。となればそこに訴求するのは当然の流れだ。しかし私の中でモヤモヤが募る。
追い打ちをかけるように自民党のiPadを使用した選挙戦での訴え方ノウハウ集「これをつかめばOK」が配布されたことが報告された。マニュアルは一概に否定しないけれどそこには議論がまるで見当たらない上にあまりにも安直なタイトルで物悲しい気持ちになる。言葉で戦う政治家が議論も思想もないノウハウで選挙戦を「こなしていく」のだから。
受信側が非テキストSNSユーザーだからイメージだけの政治。「『新しい政治イメージ』と『イメージの新しい政治化』」との言葉で説明された。西田氏は私達が学校教育で政治知識や政治についての考え方を学んでいないので政治をどのように捉えるのかは難しい問題だという。単にネットが政治に介入する程度の問題ではない。民主主義が根底から覆されかねない所に私達は今いると西田氏はいっている。講演冒頭で概況的なものについて話すと断っていたことがよく理解できた。大きな分岐点に立っていると西田氏はいいたいのだろう。
イメージの政治で語られるものは二つに分かれる。一つはプリミティブで脊髄反射的なもの。もう一つは政治、宗教、カネを感じさせない洗練されたもので、いずれも政策にはならない。政策にならない…のだがムードは作られる。議論や論証に基づく「公共概念」の代わりにフワフワしたムードが醸成された所にどこからかのシャープパワーが何度も流されたら一体どうなるのだろう?きっと人は「脊髄反射的に」それに飛びつくに違いない。歴史的に見てその動きは攻撃的、暴力的な行動に結びつくことが多いのは何とも残念だ。
ここで想起されるのはジョージ・オーウェルの『1984』だ。先のアメリカ大統領選で盛んに紹介されていたので覚えている人も多いだろう。紙(文字)の情報は音声情報に取って代わり、記録(殊に為政者にとり都合の悪い記録)は次々と上書きされていく。そこでは記録の間違いの証明ができない、それどころか人々が思考することを取り上げられている管理社会なのだ。
ここで私は不安になる。人間は言葉を持ったことで思考や記憶を発達させ大きく発展してきた。議論して言葉を思考を鍛えることで人間たりえてきたのに、今やその知性を手放そうとしている。いや、知性というと大仰に感じる人もいるかもしれないので「人間の進化の源」と言い換えてもいいかもしれない。私はこの流れに恐怖を感じている。
(太田美行)

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