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夕学レポート

2017年05月29日

瞬間を生きる 川野泰周さん

photo_instructor_861.jpg川野泰周先生の特徴は何といってもそのご経歴にある。精神科医にして禅寺の住職。産業医としても活躍されている。常々私は既存宗教がこの悩み多き現代に人生相談や精神治療などの現場でもっと活躍すべきではないかと思っていたので、待ってましたとばかりに講演会場に向かった。会場はほぼ満席、席を見つけるのが難しいほどの大盛況で関心の高さが窺える。
講演は簡単な説明の後、参加者全員による2分間の瞑想から始まった。難しいことは何も言わず、呼吸の仕方も指導や制約も特になく、ただ瞑想をするだけだ。静かな2分間。瞑想後、瞑想とは生まれた時から人に備わっているもの、瞑想の大切さが今また気づかれているのではないかとお話しされ、本格的な講演が始まった。


マインドフルネス(Mindfulness)とは「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」(日本マインドフルネス学会)、「意図的に、今この瞬間に、判断せずに、注意を払うこと」(Jon Kabat-Zinn)、「健やかに生きるための智慧」「思い遣りと慈しみの科学」「禅」(川野)などの定義がされている。「『心が満ちた状態』(マインドフルネス)とは何ぞや」と思っていたが、どうやら目の前のことに注意を払うことのようだったらしい。古くは「頓悟要門」より「人は食事をする時に考え事をしていて食事に集中していないので、これでは食事をしているとは言えない。眠る時も考え事をしていて眠ることに注力していない」という師と弟子とのやり取りを紹介し、現代の調査でも目の前のことに集中せず「ながら作業」をしている人が46.9%もおり、こうした人の多くの幸福度が低い一方で最も幸福度が高いのは「ながら作業」をせず、集中して事に当たる人だという興味深い結果が出ていることを挙げた。これは少々耳が痛い話だ。なぜならしばしば「ながら作業」をしているし、音楽を聴きながら運転する、ニュースを聴きながら料理をする、というのは忙しい現代人にはごく一般的なことだから。
私たちの脳は答えが出ず悶々としている時の状態が、初期設定(デフォルト)として生まれた時に設定されているらしい。迷っている、困っている、気が散っている、うつ・不安障害・ADHD状態などの時の状態がこれらに該当するが、これは脳のエネルギーの何と6~8割をも消費している。生まれた時に設定されたものだからある意味、集中できない心の状態にあってもそれはごく自然なことで、生まれた時の状態が強く残っているともいえる。ここで現代の私達にも役立つ白隠禅師の話が紹介された。白隠は修業のし過ぎで、今でいう自律神経失調症になってしまったようだ。その時に仙人より「内観の秘法」を授かる。上虚下実といい気血を下へおろす方法、静かに仰臥して丹田呼吸法をして内観の句を念じ、しっかりと呼吸に集中することで病は癒えた。白隠禅師はいう。すべては観念に従って創られるもので、妄念と正念によって生ずる地獄と極楽とを知るべきであると。間違った想念で見るとこの世は地獄。川野先生はこの正念を西洋的に解釈したものこそマインドフルネスだという。
マインドフルネスによってストレス耐性と集中力は向上し、創造的思考・明晰な思考も促進する、そして他者への思いやりや優しさ(共感)は増すという。自利があってこそ他利がある、つまり自慈心(Self-compassion)の重要性が説かれた。自尊心が他者からの評価によって成立するのに対し、自慈心は他者抜きの自己の本分によるもの、賞賛にも批判にも揺らがない。私たちはついつい自分に対しては厳しく評価しがちだ。謙遜が美徳だとする日本ではその傾向は一層強いだろう。しかし、この自慈心を育むには自分への優しさ、当たり前の人間感(誰でも欠点を持っているのが人間だとする心)、そしてマインドフルネスの3つが必要だ。純粋なマインドフルネス(Pure mindfulness)も世俗的なマインドフルネスも根は同じだという。
特にここで感銘を受けたのは自慈心のためのマインドフルネスについての話だった。失敗や欠点に気づいた時、生じた心の苦しみ以上に人は失敗そのものに注目して、自分を責めたり苦しんでしまいがちだが、「今感じている苦しみに気づく」ことこそが自分への慈しみの念を持つきっかけになるという点だ。自分を責めるのではなく、自分が感じている苦しみにまずは気づく。諸行無常、苦しみも時を経れば形を変える。それに気づけば苦しみも失敗も冷静に見つめることができる。私は諸行無常というものをそのようにとらえたことがなかった。諸行無常とは平家物語で有名な盛者必衰の理の一節のように何か物悲しい響きを持つもののように感じていたが、苦しみもまた無常のものだった。いつかは形を変えて消えるかもしれないものならなぜ、悲しみ続けることがあるのだろう。苦しみは自分の中での単なる想念に過ぎない。諸行無常は明るい意味を持つ理でもあったのだ。このことを知っただけでも幸せだった。
多くの人は心が飢えているのに頭の中は雑念で満ちている。頭の上にはきれいな青空が広がり、若葉や花は輝いているのに先ほどの失敗でしかめ面で、あるいはスマートフォンの小さな画面を見つめたまま俯きながら歩いていてその美しさを感じないままでいる。私たちは多くの刺激に日々晒され、その一つ一つに引きずられてしまい本来考えるべきことを考えず、進むべき道を進めないでいる凡夫だ。雑念にとらわれず、己の進むべき道を見つけるのが不惑なのか。世の不惑の人々は見つけているのだろうか。瞑想はそうしたことに気づくための有効な手段であり、禅は日々の活動の中で実践するものだという。感情は人生を彩り、活気に満ちたものにしてくれるけれどもそれに惑わされず、流されず、行うべきことをして一生を楽しめたらいい。心の雲が晴れるような講演だった。
(太田美行)

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