KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2007年07月13日

「言葉にこだわる」 伊丹敬之さん

伊丹先生の魅力は、講演中の何気ないひと言や質問者とのやりとりの中で自分自身と会話するように紡ぎ出される言葉に隠されているのではないか。
私は、いつもそう思います。
もちろん講演内容は、主催者のオーダーを尊重しつつ、聴衆の期待を感じ取りながら、平明かつ論理的に構成されている素晴らしいものです。
ただ、その言わんとするところをより深く理解するうえでは、伊丹先生が、ふっと口にする言葉をきっかけにするのが重要だと思うからです。


例えば、質疑応答の中で、
「どうやら私は、この本を書くにあたって、倫理とか道徳といった言葉を使うのを意識して避けていたように思います。そういう言葉を使うのが照れ臭いのですよ」
とおっしゃいました。
いかにも伊丹先生らしい言い方だと思いました。
「照れくさい」という表現の裏には、倫理や道徳といった、耳あたりのよい言葉で経営を語ることで、わかったような気になること、説明したような気になることへの怖さや不合理さへの嫌悪感があるような気がします。
それは、「経営かくあるべし」と喧伝する、ある種の決定論的な見解に対して、一貫して批判的なスタンスを通してきた伊丹先生の主張に相通ずるものがあります。
また、質疑応答の中で、丹羽宇一郎さんが使う「動物の血」という表現について触れられましたが、終了後の控え室では、「あれを性悪説と言わないところが丹羽さんの名経営者たる所以ですね」とコメントされました。
丹羽さんは、10月の夕学において、人間には「動物の血」が流れていることを忘れてはならないとおっしゃいました。
人間は、どんなに理性を取り繕っても、目の前の欲望や見栄に執着し、嫌なことを先送りしたいという誘惑に惑わされてしまう存在なのだという人間観を説明したものです。
非倫理的行為に目をつぶったり、不祥事を隠蔽したりする人間と、そうでない人間との間には本質的な違いはない。実は小さな嘘やささいな虚飾などがきっかけになっていることが多い。だからこそ、自分で自分を律するための仕組みや約束事を意識して作る必要があるということです。
「性悪説」と言ってしまえば、説明も対策も簡単かもしれませんが、そこからは管理・監視・罰則といった発想しか思い浮かびません。
丹羽さんの言う「自分で自分を律する」という発想とはだいぶん印象が違います。
丹羽さんは、その違いをよく認識したうで、「動物の血」という言葉を使っているのだと伊丹さんは見ているということでしょう。
そう考えてみると、「人本主義」は「ヒューマンキャピタル経営」とは明らかに違いました。
「場」の概念は、「ナレッジマネジメント」という言葉では説明できません。
「見えざる資産」とコンセプトは、「コア・コンピタンス」よりももっと大きな概念でした。
これまで、伊丹先生が提唱されてきた理論や概念は、米国初のコンセプトと似て非なる「何か」が特徴でもありました。
伊丹先生自身が、人一倍「言葉」にこだわる人なのかもしれません。
さて、伊丹さんが説く「よき経営者」とは
・論理を徹底的に突き詰めるけれども、冷徹なマシンではない。
 むしろ、論理の限界を知っていることこそが重要。
・人情の機微に通じているけれども、情に流される決断はしない。
 自分の決断で、泣くことになる人の痛みを共有できる感受性を持つ。
・あるべき姿を求めるけれども、目の前の現実的問題に手を打つことも忘れない。
 いずれを優先しても批判されることを甘受する。
そんな、大きな、大きな存在でしょうか。
「百論をひとつに止める器量なき者は、慎み懼れて匠長の座を去れ」
この西岡常一氏の言葉に、伊丹先生が見たものは、「組織の求心力の中心」としての、リーダーの役割でした。
読めば読むほど、言い得て妙な言葉であります。

メルマガ
登録

メルマガ
登録