KEIO MCC

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夕学レポート

2007年11月29日

恐るべき嫉妬のエネルギー 山内昌之さん

イスラム・中東の歴史研究、地域研究を専門とする山内先生にとって、『嫉妬の世界史』という本は、どちらかといえば余業に近い感覚の著作なのかもしれません。
しかしながら、大なり小なり「組織」の中で生きるビジネスパースンには、妬み・嫉みが生む負のエネルギーの凄まじさというのは、身近な事例の一つ二つはすぐ脳裏に浮かんでくるほど興味深いテーマです。
あるいは、いままさに「嫉妬」にとらわれている人、逆に「嫉妬」に苦しめられている人もいるでしょう。
山内先生は、そんな私たちの心情を良くわかっていただいて、快く講演をお受けいただきました。
講演の中で、先生が紹介された「大いなる嫉妬」の事例をいくつかまとめてみました。


「エリート」に対する「たたき上げ」の嫉妬
浅野内匠頭による吉良上野介に対する刃傷事件というのは、今もって諸説賑やかな歴史的事件です。
山内先生は、この事件を「エリート」に対する「たたき上げ」の嫉妬という切り口でみることができると言います。
上野介は石高数千石の一旗本にすぎなかったが、高家という特殊な役職にあっただけでなく、足利将軍家の血筋に繋がる高貴な家柄だった。従って、御三家に次ぐ高い官位を有していた。
多くの諸大名は、石高数十万の雄藩であっても、官位は上野介に遠く及ばず、公式な場での席次では、常に後塵を拝さねばならなかった。
いわば、家柄や学歴を武器に傲慢に振る舞うエリートに対する、たたき上げ集団の根深い嫉妬が渦巻いていた。
そう理解できるそうです。
優秀すぎる部下を持った上司・主人の嫉妬
西郷隆盛は藩主である島津久光の嫉妬に終生苦しめられたそうです。
島津久光はけっして凡庸な藩主ではなく、幕末雄藩の指導者として、先見性と政治力のある傑物だったが、自分をはるかに越える大スケールの国家感を持っていた西郷に対して、複雑な感情を抱いていた。
些細なことで檄高し、何度も島流しの処分にしながらも、その力を頼りにせざるを得ず、西郷を押し立てて倒幕を果たした。ところが維新後の西郷に対して、いちゃもんとも言えるような詰問を執拗に繰り返し、辟易とさせた。
この嫉妬は、維新後の西郷が、ある種の喪失感の中で田園生活に籠もり、西南戦争に担ぎ出された遠因にもなったそうです。
天才と秀才の嫉妬
石原莞爾と東条英機の関係は、天才と秀才の嫉妬合戦とも言えるそうです。
石原莞爾は、昭和の陸軍軍人でただ一人の「天才」と呼べる戦略構想家だったが、傍若無人で傲慢な、性格破綻者でもあった。
東条英機は、典型的な努力家タイプの「秀才」で、堅実な仕事ぶりや如才なさで首相にまで上り詰めた。
石原は、若い頃から五歳年上の東条を「上等兵」「憲兵」と揶揄するなど、あからさまに軽蔑していたが、東条は苦笑いをするだけの大人の対応で切り返してきた。
しかし、軍の実権を握った後の東条の仕打ちは苛烈で、石原を徹底的に干しあげた。
退役後の石原による東条批判も憎悪に満ちたものであった。
この二人の軋轢は、努力を武器に勝ち上がった「秀才能吏」と天賦の才で異彩を放ち続けた「天才奇人」による、稚気に満ちた相互嫉妬の側面もあるようです。
「嫉妬や羨望が向上心に繋がることもあると思う」というサテライトからの質問を聞きながら、個人的に「王貞治と長島茂雄」の関係を思い浮かべておりました。
両雄並び立った稀有の例と称されるON時代ですが、王さんは引退後の自伝の中で、長島さんへの複雑な感情の存在があったことを正直に認めています。
長島の天真爛漫な華やかさへの嫉妬の思いです。
王さんは、そのエネルギーを長島さんに向けることなく、バットとボールにぶつけることに転換できた人かもしれません。
「記憶の長島 記録の王」というキャッチがよく使われますが、この名キャッチコピーは、嫉妬を向上心に変えることで、野球界に永遠に残る刻印を残し得た二人の偉人に与えられた称号といえるでしょう
山内先生のお話にもありましたが、われわれは皆、内なる嫉妬心を抱えている弱い存在です。
嫉妬をしないで生きることは難しいでしょうが、願わくば王さんのように生きたいものです。

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