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夕学レポート

2009年02月16日

「人間力」を磨く

世の中には、「感覚としては分かるけれども、言葉にするとピンとこない」概念があるものです。
「人間力」という概念は、その典型かもしれません。
企業組織において、「人間力」と言う時には、知識・スキルといった表層的な能力ではなく、もっと奥底・芯にあるもので、人間として最も重要な、コアになるような力を意味することが多いようです。
数年前、政府の諮問会議において、若者就業問題を論じる文脈で、「人間力」という言葉が登場した際には、随分と批判が沸き起こりました。
その急先鋒の一人が、夕学にも登壇された本田由紀先生(東大)でした。
本田先生は、「人間力」をコミュニケーション力、問題解決力、決断力等と定義したうえで、それらが、家庭・幼児教育など環境の影響が大きく、本人の努力では如何ともしがたい能力であると言います。
そして、いたずらに「人間力」を強調することが、スタートに遅れてしまった若者達を、どうしようもなく追い詰めていると指弾しています。
また、「人間力」を否定的に捉える人には、使う人の恣意的な概念でしかなく、共通の定義や実測できる科学的な方法がない、あやふやなものにもかかわらず、あたかも人間に共通する根本的な能力のような使い方をすることの誤りを指摘する人もいるようです。
なるほど、その通りで、「人間力」を要素分解的に定義したものを見ると、どこかで目にした「○○力」「▲▲力」の集合体でしかなく、「なんか違うよナ~」という印象が否めません。


とはいえ、個人的には「人間力」という概念が、スッキリと腹に落ちる人間のひとりであります。
・どんな人の意見でも、虚心坦懐に受け止める度量の大きい人
・修羅場になっても逃げ出さない土壇場での強さを持った人
・何をやるにも、自分の中に一本筋の通った基軸のある人
そういう人は確かにいるもので、それを表現するのに「人間力」というラベルが、やっぱり相応しいという気がしています。
そんなことを考えていた時に、夕学で天外伺朗さんの講演を聞いて「なるほど」と思いました。
天外さんは、「感覚としては分かるけれども、言葉にするとピンとこない」現象を、老子が説いたという「タオ」の考え方を引きながら説明されました。
「語りうるタオは、タオそのものではない」(老子『道徳経』)
タオ(真髄)は、決して言葉で表現できるものではなく、言葉はタオ(真髄)の痕跡でしかない。
大脳生理学の知見によれば、言葉に代表される論理世界は、大脳新皮質と呼ばれる分野が司るが、タオ(真髄)は、もっとも原始的な働き(本能、危険察知)を司る「辺縁系」で理解するものだ。
伝わりにくいものを、伝えようと努力すればするほど、伝わらない。そういうものだ。

つまり、無理して論理で理解しようとするから分からなくなるのであって、感覚で理解できればよいものだってあるのです。
「人間力」も、そういう捉え方をすればよいと考えるようになりました。
人は多様性を内包する生き物といえます。仕事・家庭・地域参加・社会貢献等々さまざまな「顔」を持ち、多面的な知的社会活動を営んで生きているはずです。
一方で、私たちが身を置く企業組織は、効率性を重視するあまりに、ともすれば多様性を抑制し、ひとつの「顔」で生きることを強いるときがあります。それが結果として、人間の幅を狭め、深みを失わせることになってはいないでしょうか
人として、こころ豊かに生きるためには、多様な「顔」を内側から支え、バランスよく動かす駆動力のようなものが必要です。
それは「人間力」と呼ぶのが相応しい力だと考えます。
「知性」「感性」「身体」の三つの要素から構成され、人間のあらゆる知的社会活動において発揮される立体的な総合力、それが「人間力」だと思います。
豊かな「人間力」を持つことは、自らの基軸を形成し、発想を豊かにし、異質な他者への理解を促進し、失敗や挫折への耐性となるはずです。
では、「人間力」は、いつ、どうやって磨けばよいのでしょうか。
神戸大学の加護野忠男先生は、松下幸之助氏や本田宗一郎氏、中内功氏など、一時代を画した経営者が、どのようにして自らの経営観を構築したのかを、「学び」という側面から調べたことがあるそうです。彼らに共通していたことは、起業後に夜間大学で学んだことでした。
加護野先生は、「経営学の授業は全部忘れたが、日本国憲法の授業が面白かった」という中内さんの言葉を紹介しながら、「彼らが夜学で学んだことは、実務知識や専門技能ではなく、基礎科学や古典を通して、時代を越えて生き残った普遍の真理を学び取る力だったのではないか」と推察しています。
更に加護野先生は、それらの知見から、学部1、2年生(18歳~20歳)向けの授業で、何冊かの古典作品を提示したうえで、「必ず買え、でも読まなくてもいい」と言っているそうです。
十八、九の若者に古典の真髄が理解できるはずがない。でも、何十年か経って、読みたくなる時期がきっと来る、それが古典である。そう考えてのことです。
古典を学ぶ「適齢期」とは、実務をこなすうえで、理想と現実のギャップに悩み、その繋がりを知りたいと思った時ではないでしょうか。
古典や芸術とは、かつて同じ悩みに直面した先達達が、普遍の真理として紡ぎ出した知の結晶に他ならないからです。
春から始める夕学プレミアム『agora』は、古典や芸術を学ぶことを通して「人間力を磨く」ことを目指しています。

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