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夕学レポート

2014年10月07日

伊丹敬之教授に聴く、『孫子に経営を読む』

photo_instructor_748.jpg 『孫子』は、2600年程前に書かれた兵法書である。文字にして約6000字。その読み継がれて来た永さとは対照的な、本編の短さ。
 「しかし、これだけ密度濃く、内容の深い本はありません」
 伊丹教授はそう言い切り、その理由を論じ始めた。


 『孫子』を論じた書物は山とある。その中で、現役の経営学者として敢えて一冊を物するのだから、単なる解説本では終わらない。
 教授はまず、原著の韋編を解き、自らの章立てに従ってそれを編み直した。
 序 物理と心理の書、『孫子』
 第一章 経営の本質
 第二章 将のあるべき姿
 第三章 兵の情
 第四章 戦略の真髄
 第五章 戦略的思考とは
 第六章 勢いは経営の肝
 結 余韻
 第一章・第一節。「兵とは国の大事なり」という言葉。ここでの「兵」は国防の意。国防の最高指導の責任は、専門家としての軍人ではなく政治家が果たさなければならない、と教授は言う。例として召喚されたのはチャーチル。第二次大戦、ヒトラーにより存亡の危機に晒された大英帝国は、軍人ではないこの名宰相の軍事的・政治的決断で息を吹き返し、勝利した。
 然るに同時期、日本では、軍人の暴走によって戦端が開かれ、軍人が政治を振り回した。結果、軍事的にも政治的にも敗北し、あの無残な降伏を迎えた。
 では戦後はどうか。ここからが経営学の出番である。企業の大事にあたるものは技術。その技術を、経営者が技術者集団に全面的に委ねた結果が今の悲惨な「ガラパゴス」状態である。だからこそ技術者ではなく経営者が責任をとるべきだ、と教授は訴える。曰く、「技術とは企業の大事なり」。
 第一章・第二節。孫子は、君子が兵について考えるべきは「道・天・地・将・法」の五つであるとした。最も大事なのは、「道」により人心の統一を図ること。次に「天」と「地」、つまり天候や地形等の環境。「将」で現場の指揮官が問題にされ、最後に「法」、即ち軍の組織統制に関わる部分が論じられる。
 教授はこれを企業に置き換え、「理念・戦略・現場の指揮官・経営システム」の四要因が、この順番で大事であるとした。まず理念によって、経営者と現場の従業員との間の人心が一つに結びつくことが大事である。次に、環境という外部要因に対置した「戦略」。人やシステムは、あくまでその次にやってくる。
 かように伊丹教授の名調子は梗概に従って延々続くのだが、残念ながらそれを逐一再録する字数はない。幸い、取り上げられたほぼすべての話題は演題と同名のご著書にも収録されているので、ぜひそちらをご覧いただきたい。
 ここでは、講演を通じて私なりに考えたことを二点、記してみたい。
 ひとつは「環境」と「戦略」について。
 先に紹介した君子の仕事「五つ」で、伊丹教授は「天」と「地」を併せて「環境」としつつ、それが外部要因であるために企業向けに「戦略」と言い換えた。しかし、教授自身が言及された通り、これでは少し収まりが悪い。孫子は要点を「五」に纏めることにこだわっている節があるからである。
 よく見れば「天」と「地」は、同じ環境要因とは言っても、片や刹那も止まらず生生流転するもの、片や限られた生ある者には万古不易にも思えるもの。ならば前者を動的環境、後者を静的環境と読んではどうか。その上で静的戦略/動的戦略と言い換えれば、経営者には、そこからポジショニング戦略や創発戦略といった言葉までもが連想されるかも知れない。
 もうひとつは「敵」について。
 古代中国の軍事の書を、現代の経営の書として読み解こうというのだから、当然そのままでは読み替えが困難なところがある。
 例えば、「彼を知りて己を知れば勝ち乃ち殆うからず」という名文句の冒頭の「彼」。戦場ならば当然「敵」である。それを今ならどう読むか、という会場からの質問があった。
 単に「競争相手」と見做しては「顧客」が視野に入らない。その弊は教授自身が指摘された。その際、教授は「顧客」と読んでみることを提案した。競合をベンチマークして満足するだけで、顧客を省みようとしない企業の多さを憂慮しての言葉であろう。
 「彼」が顧客で「己」が自社なら、さて「敵」はどこにいったのか。
 古代の戦場と違い、現代の市場では、「競争相手」に直接の危害は加えない。「敵」を「志の実現を阻むもの」と捉えれば、むしろその「敵」は「競争相手」を過剰に意識する心、つまり「己」の中にいるのではないか。そこまで含んでの「彼を知りて己を知れば」ではないだろうか。
 さて、これらを含め、伊丹教授の著書では計80もの孫子の名言が引用されている。文字数約1500字というから、それでも1/4に過ぎない。そして残り3/4にも珠玉の言葉が埋もれている。だからぜひ原著に触れてほしい、と教授は繰り返した。
 そもそも孫子を漢字という原語で読めるのは、日本人に与えられた数少ない言語学的アドバンテージである。思えば千数百年もの間、日本人の教養の根幹には中国の古典があった。今や、その教養が失われ、技術的なことばかり論じるようになった日本人。しかし教養なくして深い思考は成り立たない。だからこそ今、孫子をはじめとする中国古典が必要とされ、ブームとなっているのではないか。そしてそのことが、短期的な問題で国家百年の計を誤りたくないと考えている日本人に、読まれている理由のひとつではないか。
 このような言葉で、此の国と彼の国の来し方と行く末を憂いながら、教授は自らの講演を閉じた。
 最後に、もうひとつだけ伊丹教授の言葉を引いて擱筆したい。
「具体的、定量的な記述は今読んでも通じないところが多い。しかし人間心理の本質は、古代から現代まで一切変わるところがない。そのことを孫子は、研ぎ澄まされた言葉で書き残した。だから今でも読める。孫子は深い。」

白澤健志
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