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夕学レポート

2014年12月05日

発信とは人がするもの 谷口智彦さん

photo_instructor_750.jpg 「発信力」ときいて、てっきり日本文化広報のあり方を斬る!というような話かと勝手に勘違いをして臨んだが、どうやらそれは間違いだったようである。事はクールジャパン戦略の検証、といった小さな話ではない。むしろタイトルの頭にある「日本外交」、そう、まるっきりガチな国際交渉のリアルが、次々と開陳された90分であった。それもそのはず、谷口氏は、安倍首相の内閣官房参与として海外のメディアの矢面に立ち、日本政府を代弁する立場で日々闘っている方なのである。


 そのご本人が、日本の発信力は貧しい、という大前提から話を始めている。実感であろう。しかしその貧しさとは、いったい何を指すのか。どこに顕現しているのか。どの国の、どの程度の基準に照らして貧しいのか。そもそもその辺りの常識が薄い私としては、どちらかといえばそちらをまず教えていただきたかったが、最初に定義づけて明言されることはなかった気がする。おそらくそれはあまりに自明すぎて、敢えて語るべきことではなかったのだろう。察するに、隣国・中韓との長きにわたるこじれっぷり、そのこじれを彼の国ほど国際社会で声高に主張することもせずどちらかといえば上品な対応でやりすごしていることや、軍国主義の歴史がもたらした傷や資源を輸入に頼らざるを得ない引け目などのあれやこれやが、ついつい物云わぬイメージを固定化しがちな我が国ニッポン、ということなのであろう。
 いいかえれば、日本がこの先、谷口氏の言う「strategic space」を構築していくためには、現状のままではいけないのだという強い危機感と受け止められた。5年、10年、30年、そしてさらなる先を見据えた時、世界でどのような位置を地政学的に占められるかを決めるための今、である。
 その鍵を握るのは、やはり経済しかない。谷口氏は力を込めて断言する。「伸びる外交と経済・軍事は、切っても切り離せない」。特効薬を得て病を克服、一期目で「やり残したこと全部やる」と決めた安倍首相に迷いがないのも、そういうわけなのだ。しゃにむに突っ走る経済政策も、集団的自衛権行使容認の閣議決定も、精力的な外遊も、ひいては外交のため。イデオロギーへの妄執やお家の怨念のためゆえではなかったらしい。
 やるべきは、東アジアから出て、世界と日本をつなぎとめてくれる仲間とともにstrategic spaceを広げていくこと――。最重点地域は、インドネシアを筆頭とするASEAN諸国であり、インドであり、オーストラリアである。一大農業輸出国・オーストラリアとは自由貿易協定が結ばれ、日豪が晴れて「スペシャル・リレーションシップ」な間柄になったときけば、インドは「じゃあ俺たちゃ、さしずめスペシャル・ストラテジック・グローバル・パートナーシップさ!」と肩を組んでくれたという。かつてインドネシアには戦略的にODAを注ぎ込み、インド・オーストラリアとは地道な信頼関係をコツコツと築きあげてきた。「外交」が実を結んだ結果である。
 めまぐるしく変わる地政学の中で、日本が今後「おだやかな自尊心を持ち、へりくだりすぎず、ほどほどに前を向いて」生きていくことは可能か。谷口氏はイエス、と請けあう。悲観は不要だ。そのひとつの光明が東京オリンピックである。個人的にはオリンピックにはかなり懐疑的な私だが、グローバリゼーションの下、風が吹けば桶屋が儲かる式にあらゆることに因果が巡り、セカイに無関係でいることは難しい時代。好むと好まざるとにかかわらず、”飛び込む”覚悟が迫られているのかもしれない。
 安倍外交とはつまり、日本外交がもともとなすべき外交だ、と繰り返す谷口氏の本心は、当政権とてテンポラリーなもの、織りなす外交タピスリーの一端を成すものに過ぎないというところか。とどのつまり、発信とは、「建物や機関ではなく、人がするもの」。strategic spaceはひとりひとりの足元から少しずつ、だが着実に拡がっていくものとの実感であろう。というわけで、日本の発信力が貧しくなるのも豊かになるのも己の沙汰次第。今や誰もがメディアなのである。

茅野塩子
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