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夕学レポート

2015年08月04日

自身の歪みに気が付いた「『昭和天皇実録』から何を読み解くか」 保阪正康さん

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私は個人的な関心から、ここ数年ほど戦争の歴史を調べてきた。具体的に言うと、1931年の満洲事変から1945年までの終戦までの間に何が起きていたのかを知るために、様々な資料を読んだり、各地の記念館を訪ねたりしてきた。
ゆえに、昭和天皇がどのような状況の中でどんな決断を下してきたかということについて多少の知識がある。これまで得た知識からは、昭和天皇は平和主義的な人であるとの印象を強く抱いてきたし、それが一般的な見方だと思ってきた。
しかし、保阪さんは講演の中で違う見方を示した。
「昭和天皇は好戦的でもなければ平和主義者でもない」。


昭和天皇の最大の役目は「皇統(=天皇の血統)を守ること」であり、皇統を守るために戦争が必要ならば選択するし、そうでない方法が最適ならば別の方法を取るというのが昭和天皇の立場だったと保阪さんは説明された。
この保阪さんの説明に少なからず私は驚いた。そして、自分が驚いたことの意味を考えたときに、自分の中に知らず知らずのうちに宿っていた感情に気づき、二度驚いた。
どういうことか。
会場で聞いた「天皇は平和主義者ではない」という保阪さんの言葉が、私にはひどく冷たい響きに思えたのだった。保阪さん、結構ひどい言い方するなあ…と。
別の言い方をすると、保阪さんの話を聞き、私は自分が思っている以上に、昭和天皇への愛着というか同情といおうか、いずれにせよ好意的な感情を持っていることに初めて気が付いたのだった。
私の中での昭和天皇は紛れもなく平和主義者であり、狂気に満ちた軍幹部たちに囲まれても正気を失わず、常に大局を見ようとし、国民への大きな愛情を持つ存在という評価になっていた。
敗戦の色が濃くなってきた時期、当時の首脳陣は降伏の条件として「国体の護持」、すなわち天皇制の存続を最重要課題に置いたわけだが、私は、昭和天皇その人は、「たとえ天皇の血統が途絶えようとも、一人でも多くの日本人を救ってほしい」と願っていたに違いないと思い込んでいた。それが事実かどうか今の私にはわからないが、そう無意識のうちに思い込んでいたことにゴツンとぶつかった。だから、保阪さんの評価に抵抗を感じたのだった。
これまで戦争をテーマに描かれた映画やドラマなど、結構な数の作品を見てきた。そしてその多くの内容に違和感を抱いてきた。いかにも、戦争を美化する内容が多かったからだ。
国のために命を捧げる人間たちの心の美しさや、優秀なリーダーがいたことに光を当て、まるで英雄譚でもあるかのように描かれた作品がなんと多いことか。
戦争に負けたことは忘れたい過去だろうし、他国で暴行を働いたことをなかったことにしたいというのはわからなくもない。だが、現実の悲惨さ惨たらしさを覆い隠し、美談に仕上げる多くの作品に私は嫌悪感すら持っていたし、歴史を直視しない歪んだ視線を否が応にも感じていた。
がしかし、昭和天皇を悪の渦巻く中に一点存在した善なるものとして認識していた私もまた、同じではなかったか。呆れるばかりの歴史的な事実を知るにつけ、まるで救いを求めるかのように天皇を良識の代表として位置付けた私にも、やはり歪みがあるのだと認めざるを得なかった。今回の講演を通じての一番の気づきであった。
保阪さんのお話は、2014年に公表された「昭和天皇実録」に関することが中心であった。実録は61巻1万2千ページに及ぶ大部の書であるが、昭和天皇の実像を理解するための貴重な資料である。
戦争あり、クーデターあり、貧しい時代も飽食の時代もあり、恐慌もあれば高度経済成長もあった昭和の時代を、保阪さんは「人類史の見本市」と表現された。
昭和が終わってわずか27年。すでに昭和は懐かしく、セピア色に色褪せつつある。振り返ればまだまだクッキリ見えるほどに近い過去であるにも関わらず、私たちが忘れていくスピードは恐ろしく速い。
私たちは歴史を知り、直視し、学ばなければならない。できるだけ歪みを排除し、真っ直ぐに事実を見つめ、そこから教訓を得なければならない。
人類史の見本市である昭和の時代のど真ん中にいた天皇の実像を探ることは、私たちに大いなる示唆を与えてくれることだろう。
もっと学びたい。
この講演は、そんな思いを新たにさせられる有意義な時間となった。

松田慶子

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