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ピックアップレポート

2004年04月13日

交渉の戦略

田村 次朗
慶應義塾大学法学部教授

ビジネスに必要な能力は、日々、変化している。特に、組織における『出世・昇進』を中心とするキャリア・パスが崩壊しつつある今、競争社会を生き抜くための能力やスキルは、自分自身で見つけ、鍛えなければならない。では、具体的にどのようなスキルや能力を身につければよいのだろうか。私は、大きく分けて、二つの能力が必要だと考える。

一つは、高度な専門知識である。そして、その専門知識は、現在所属している組織の中でのみ通用するような知識ではなく、どこに行っても通用するような知識でなくてはならない。そのような知識を身につけて、キャリアとしてアピールするためには、大学院進学、留学や資格取得を目指すのが一般的なアプローチだろう。ただし、一番重要なことは、資格や学歴といった短期的な目標を達成した後、常に専門知識を更新していくための勉強・研究を継続し、それを習慣化することにある。

そして、もう一つの能力とは、グループ内部の創造性を発揮させるためのマネジメントや、相手と交渉し、説得するといったコミュニケーション・スキルである。しかし、一般に高度な専門知識の修得には熱心でも、コミュニケーションそれ自体を学ぶということには意外と消極的な方が多い。その例外は、英語力であろう。ただし、英語力を鍛えるというのは、あくまで言葉を覚えるということでしかない。むしろ大切なことは、どのように相手を理解し説得するか、あるいは相手の意見をきちんと聞き、相手のニーズや目標などを効果的に聞き出すことに関連する能力である。

たとえば、投資銀行と合併のプロジェクトを進める弁護士は、専門領域である法的問題のみに目を向けているだけでは不十分であり、ファイナンスや投資銀行の戦略までをトータルに把握し、組織内部でのコミュニケーションと、取引相手との交渉に臨まなければならない。そこでは、弁護士の高度な専門知識は、プロジェクトの必要条件ではあっても、十分条件ではないのだ。そして、このことは、今後複雑多様化するビジネス環境に対応していかなければならないビジネスパーソン一般にも当てはまることである。そこで、これからは、専門知識とコミュニケーション・スキル双方をバランスよく身につけるためのトレーニングを、日々習慣づける必要があるといえる。

そこで、本書は、このコミュニケーション・スキルのなかでも最も重要な交渉を研究対象とする学問である交渉学について、その基本的な考え方、方法論を紹介する。ところで、交渉学は、すでに日本においてもいわゆる「ハーバード流交渉学」として紹介されているのでご存じの方も多いと思う。ここで重要なのは、この交渉学という学問が、ロースクール、すなわち法学教育の中に取り入れられているということである。これは、日本人が考える法律家(弁護士や裁判官)のイメージからすると、奇異に感じられるかもしれない。

多くの日本人が考える優秀な弁護士像とは、「法律に詳しい人」、すなわち、専門知識をどれだけ多く保有しているかということを最大のスキルと考えがちだからである。確かに法律の知識は必要であろう。しかし、それは単に法律家としての最低限の必要条件にすぎないのである。むしろ本当に優秀な弁護士とは、法律の知識を生かしながら、複雑な利害関係や錯綜する事実関係を整理しつつ、依頼人との良好な関係そして相手方との交渉を通じて、最適な問題解決を図る能力をもっている人間である。

これこそが交渉学が重視する能力であり、そして実際、日本人の優秀な弁護士の方は皆、この種の非常に高い交渉能力をもっている。一方で、弁護士のなかでも、この交渉力には非常に大きなばらつきがあるのも残念ながら事実である。

そこで、この法律家として本当に求められる能力を総合的に身につけるためにはどうするべきかという問題意識から形成されたものが、もともとの交渉学の源流の一つといえる。私が今回紹介する交渉学も、この法学的視点からの交渉学の一つである。

では、この交渉学は、法律家のみに特有の特別な交渉学なのだろうか。そうではない。法律家が直面する困難な問題状況の中で「鍛え上げられた」交渉学は、ビジネスにおいて大きな威力を発揮することはいうまでもない。実際、多くのアメリカのビジネス・スクールが教育する交渉学の内容の大半が、ロースクール、特にハーバードの交渉学研究所(Program on Negotiations , Harvard Law School)で開発された教材を使用している。ちなみに、私と交渉学の出会いもまた、1983年にハーバード・ロースクールに留学した際に接した交渉学の講義であった。当時、法解釈学中心に法律を研究していた私にとって、交渉学は、法学の新しい可能性を期待させるものであったことを記憶している。そして、この留学時の新鮮な経験が、私の交渉学研究の出発点となっている。

ただし、私が今回提唱する交渉学は、いわゆる「ハーバード流交渉学」とは異なる視点からの整理を試みている。それは、交渉における論理性を重視すること、すなわち論理的思考を重視した交渉学である。特に、1)自分のプレゼンや交渉戦略を論理的に構築することで「説得力」を高めるという側面と、2)交渉相手の交渉姿勢や考え方、そして交渉のプロセスの展開を論理的に推測することによって、交渉の「先」を読むことができるという側面を重視している。

まず、「説得力」について考えてみる。通常、説得力がある説明とは、「物語」があること、視覚的なイメージとしてとらえやすいこと、という二つの要素をもっていることが多い。

まず、説明が一つの「物語(ストーリー)」として整理されていると、聞き手は理解しやすい。たとえば、私の専門である経済法(独占禁止法)の説明を学生にする時、抽象的に「独占」の弊害を説明するよりも、マイクロソフト社の事例を取り上げてその事件の経緯から説明すると、格段に関心度、理解度が高まる。これは、法律が現実の事件でどのように使われるのかを、事件の経緯という物語を通じて説明するためである。そして、さらにこの説明を「図式化」して提示すれば、より理解は深まっていく。私の提唱する交渉学は、この物語性と視覚化という二つの要素を、交渉相手を説得する、または交渉相手とのコミュニケーションを正確に理解するツールとして、最大限に活用することを目指している。

この論理的思考の交渉学への応用は、演繹法、帰納法そしてピラミッド原則をはじめとする様々な論理の整理法など、多様な思考のフレームワークを駆使して自分の論理展開を検証しつつ、同様に交渉相手の論理展開を分析することに役立つ。このような冷静な分析的態度は、その場の雰囲気や相手の心理的圧力に流されて安易な譲歩や妥協をするのを回避するためにきわめて有効である。

そして私の提唱する交渉学では、交渉における「戦略性」を重視している。ここでいう「交渉の戦略」とは、交渉において相手の先を読み、自分の行動を選択する行動、そして、最終的に目標に到達するための手順全体を意味する。この戦略をいかに組み立てるかは、かつては戦争において最も真剣に検討された領域でもあり、戦争を前提とした戦略論である『孫子』やジェミニやクラウゼヴィッツの『戦争論』は、いまだに根強い人気がある。他方、戦略行動をより科学的に分析した「ゲーム理論」は、交渉学の前提となる戦略の策定において極めて重要となる。本書では、この交渉における戦略性をどのように高めることができるか、その具体的な手法を紹介している。

このような交渉の戦略性を学ぶことを通じて、感情的な焦りや相手に対する不満から、その場限りの強引な交渉を進めて結果的に失敗したり、中長期的な視野に立脚せず、安易な譲歩をしてしまうことを避けることができる。

たとえば、交渉テクニックとして、意図的に突然怒り出してみたり、あるいは急に交渉打ち切りを示唆したりして相手を動揺させ、その不意をついて自分にだけ有利な合意を形成しようという「不意打ち型交渉」を行う例を見てみよう。このいきなり相手の不意をつく奇襲作戦は、織田信長の桶狭間の合戦や真珠湾攻撃のように、表面的には華々しく、それがうまくいったときには、爽快感もある。

しかし、ここで忘れてはならないのは、そのような戦術が、戦略全体として効果的といえるかどうか、そのような交渉姿勢を示したことが中長期的にどのような影響をもたらすことになるのかを考えてこのような戦術をとっているかが問題となる。もし、感情や自分の勝手な当て推量に基づいてその場限りの交渉テクニックを使ったとしても、最良の結果を生み出すことはないだろう。
かつて、織田信長が奇襲を行ったのは生涯において桶狭間一度であったことを、忘れてはならない。すなわち、交渉においても、戦術ではなくあくまでも「戦略」に着目すべきなのである。さらに、その戦略を論理的に構築することが重要になるといえる。

さらに本書では、論理性と戦略性を重視するとともに、日本人を対象とした本当の意味での「Win-Win型交渉」とは何かという点を明らかにする。時折、「顧客といつも良好な関係を築いているし、ふだんこの手の交渉を実践しているから別に学ぶ必要はない」とか、「昔ながらの日本的な交渉では、きちんと相手の利益に配慮している」といった話を耳にすることがある。しかし、おそらくこのような話で語られる交渉は、Win-Win型交渉ではない。それは単に、「ソフトに譲歩し合っているだけの駆け引き交渉」にすぎない場合が多いのである。

では、本当のWin-Win型交渉とは何か、それは、交渉によって双方の利益を最大化するための交渉である。これは、単に「落としどころ」を模索するために、当初考えていた目標からどんどん譲歩して合意するというタイプの交渉ではないのである。本書が提唱する交渉学では、この問題点に着目している。実は、日本人が陥りがちなソフトな駆け引き交渉は、そこそこの合意しか得ることができないのである。そこで、本書は、これに代わる新しいスタイル、すなわち、合意しうる最大利益の獲得を目指す交渉を提唱し、そのための方法論を紹介する。

他方、Win-Win型交渉については、「そんなにうまくいくはずはない」、「日ごろ、営業ではどんなに相手のためになるような提案をしても、相手は駆け引きばかりを求めてくる」という批判もある。確かに、文化的対立や、交渉相手が不誠実、または悪質な場合には、どうしても駆け引きに走ってしまうことも無理はない。しかし交渉で最良の結果を得るためには、「どんなに困難な状況にあっても、交渉によって最適な問題解決の解が存在する可能性を最後まで捨てないこと」を常に意識する交渉を継続しておく必要がある。安易に駆け引きに走れば、それ以上の発展はないのである。

したがって、どんなに困難な状況でもこの姿勢を維持し続けること、これを私は重視している。そしてこの手法は、いかなる交渉においてもその威力を発揮するのである。これは、いいかえれば、自分のとりうる選択肢を最初から限定しないということである。たとえば、どれほど激しく対立しあった法廷闘争であったとしても、どこに和解の可能性があるのかを最後まで模索するものである。「裏口のドアを最後まで開けておく」といった交渉スタイルこそ、Win-Win型交渉であり、また真の交渉のプロフェッショナルのスタイルであるといえよう。

このように、本書は、交渉という一見すると体系的に整理することができないような事象を取り上げて、それをできるだけわかりやすく、可能な限り論理的・体系的に説明しようとするものである。したがって本書は、「なかなか交渉がうまくいかないが、その原因は何だろうか」、「日ごろの交渉では、譲歩ばかりを迫られているが、これを打開するすべはあるだろうか」あるいは、「いつも強い立場の取引先に強引な条件を突きつけられていて困っているが、どうすればもっと有利な交渉にもち込むことができるだろうか」、さらには「外国人との交渉では論理的に説明することが求められるが、そのための効果的、効率的な方法論はあるのだろうか」といった、ビジネスで直面する交渉に関わる問題について解決の糸口を提供するものである。本書が、日本における交渉学の重要性を認識していただける一助となれば幸いである。

また、本書は、法科大学院における「交渉学」あるいは「法交渉学」といった分野のテキストとしても活用可能である。特に、司法制度改革によって実現した法科大学院は、実務との架橋を意識したカリキュラム編成が求められている。交渉学のような実務家としての総合的な交渉力育成に適したものについては、今後、法科大学院も真剣に取り組む必要があるだろう。そして、そこでの交渉学教育は、法曹に必要とされる総合的な問題解決能力の育成を主眼に、ロールプレイを中心とした体験的な学習の場を提供することになると考える。これは、交渉学とは、座学で学ぶものというよりも、ロールプレイを通じて体験的に学ぶことの効用が大きいからである。本書は、そのロールプレイでの学習体験を、体系的に整理するための教材として使用されることを念頭に置いている。

また、株式会社慶應学術事業会丸の内シティキャンパス(MCC)における「ビジネスプロフェッショナルのための交渉学」という講座の講義内容から生まれたものである。この講座は、すでに豊富な交渉経験を有するビジネス・パーソンに対して、自らの交渉経験を体系的に整理すると交渉学という新しいスキルを提供し、また自らが教えると同時に受講者の方からも多くを学ぶという相互学習を実践する、新しい教育スタイルを提供するものである。

(2004年3月に発行された『交渉の戦略 思考プロセスと実践スキル』「はじめに」により著者の許可を得て転載)

田村 次朗(たむら・じろう)
田村 次朗

ハーバード大学ロー・スクール修士課程、慶應義塾大学大学院法学研究科民事法学専攻博士課程修了。専門は経済法、国際経済法、および交渉学。各省庁などの委員を務めるとともに、日米通商交渉、WTO(世界貿易機関)交渉における政府への助言、ダボス会議(世界経済フォーラム)への参加等、最前線における国際交渉の活躍経験もある。またその一方で、実務教育としての「交渉学」の開発に取り組んでいる。著書に『WTOガイドブック』、『交渉の戦略 思考プロセスと実践スキル』など。
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