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今月の1冊

2014年12月09日

『仏像のお医者さん』

仏像のお医者さん
著:飯泉 太子宗 ; PHP文庫 ; 発行年月:2014年6月; 本体価格:691円

京都。1000年の歴史があり、培ってきた伝統文化と美しい景観がぎゅっと凝縮されているこの町のファンはたくさんいらっしゃるかと思いますが、私も、年に1回は訪れるほどの京都好きです。

京都に魅せられた理由は、それぞれだと思いますが、私の場合、小学校低学年に、家族旅行の最終日に連れて行ってもらった二条城がきっかけでした。ご存じの方も多いと思いますが、二条城内では、当時の恰好をした等身大の人形で大政奉還の再現がされており、私はそれをとても気に入り、お家に帰りたくないと駄々をこねたそうです。もちろん、それは、幼い私にとって、人形が面白かったということもあったと思います。でも、もし、それだけの理由であれば、すぐに忘れてしまったことでしょう。
 
何十年も経った今でも、変わらず京都が好きでいるのは、人形での歴史的事件の再現を通して、子供だった私でも、このお城は、お祖父ちゃんでさえ生まれていない、はるか昔のことを見ていたのだと、「時」を感じることができたからだと思います。

そう、京都には、いたるところで「時」を感じることができる。これが京都の魅力の1つではないでしょうか。そして、その魅力を支える一端を担っているのが、仏像ではないでしょうか。

子供の頃の私が二条城で感じたように、仏像もまた、自分が知らない遙か昔から、想像もつかないほどの果てしない長い時を経て、いまここに存在しているものです。私は、その前に立つと、自分が気に悩んでいることが、とてもちっぽけに感じます。もし、仏像がなかったら、こんなに京都という町に惹かれなかったかもしれません。

それほどの存在感がある仏像を、中でも傑作と言われたものを生み出してきた運慶、快慶などの仏師達の素晴らしさは明白ですが、一方で、忘れてはならない方もいます。それは、これらの仏像を後生まで伝え続けるために、修復してこられた人々です。

日本が仏像を学んだ中国では、廃仏や焼失によって、古い仏像はほとんど残っていないという事実もあります。仏像だけではなく、何事においても同じかもしれませんが、実は、生み出すことと同じくらい、いや、それ以上に、守ることの苦労があるのではないでしょうか。

そんな思いから、私は、この、仏像修復という職業が前から気になっており、この書籍『仏像のお医者さん』を手に取ったのも、そのような理由からでした。

筆者の飯泉太子宗氏は、京都にある美術院国宝修理所にて、国宝、重要文化財の仏像の修復に携わり、現在は、地元の茨城に戻ってNPO法人古物修復工房を設立し、関東を中心に仏像や文化財の修復を行っている方です。本書では、自らの仕事を「自然の摂理に刃向かう行為」と表現しています。

形あるものはいつかは壊れる。その真理に逆らいたくなるのは人の性。

とはいえ、刃向かいきれず、逆らいきれず、完璧な修理をしても、いつか再び壊れる日が来てしまいます。1001体の千手観音像があることで、京都を代表する名所の一つとなっている三十三間堂にて修理をしていたところ、600番台の仏像に取りかかっていた時には、すでに、はじめの頃に修理された1番台の像は少し傷みかけていて、「これでは永遠に仕事が終わらない」と、同僚達と苦笑しながら、自然との追いかけっこを続けられたそうです。

もし、本気で自然に勝ちたいのであれば、仏像を、一切、光が当たらないような容器に入れ、その中では温度湿度を管理し、かつ、防菌防虫酸化防止効果のあるガスで密封の上、究極は、地球上のあらゆる天変地異から守るために宇宙空間に飛ばすくらいのことをしなくてはなりません。無論、永久保存のためにそこまでやる意味があるとは思えず、自然に勝つことは不可能だと分かっていても、それでも、投げ出さずに修理を続ける。

その、ゴールのない道を歩み続けていられるのは、自らの修理を終え、次の数百年後の世界、次の修理者への、バトンの渡し手の一人として歴史に参加できるやり甲斐があるからだといいます。仏像修理が完了した際には、仏像の体内に、誰の依頼で、誰がいつ修理したかということを記載した修理銘札を残すそうなのですが、その時の達成感は、恐らく言葉には尽くせないのではないでしょうか。

一方で、修理されて喜んでいる仏像ばかりでもないという、興味深い事実があり、本書では、そのような仏像も紹介されていました。如来系の代表的な仏像には、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来がありますが、姿かたちが似通っていて、区別が着きにくく、印相と呼ばれる手の形から像名を判断します。

しかしながら、手が取れて無くなってしまった仏像もあり、判断を間違えて、薬師如来を釈迦如来に修復してしまうこともあるそうなのです。当然、口の聞けない仏像達は、人間にされるがまましかありません。中には、所有しているお寺の宗派が変わったからといって、故意に仏像の手をすげ替えて、別の如来にリニューアルされることもあるというのですから、仏像修復は、神業(仏業?)のような神聖なイメージを持っていた私としては、大変ショッキングな事実でした。

しかしながら、それが果たして、間違った方法だと言い切れるのでしょうか。家のリフォームのように、所有者の住みやすいように替えることが、最良の修理だと判断されるものもあるのですから、持ち主の事情によって、別の如来様になっていただくという修復の形も否定できないのかもしれません。なにより、新しい姿となったことで、より大切にされるのであれば、きっと仏像も満足でしょう。

また、現在のような、古いまま、あるいは現状を維持するように修理する「文化財修理」の考えは、昔から一般的であったわけではなく、一昔前の仏像修復では、車の修理と同じように、新品同様に戻すという理念で修理されてきたそうです。

現在でも、実用品か美術品かの用途で、望まれる修理の方法が違い、礼拝対象としての威儀を正すために、色彩豊かな仏像や燦然と黄金に輝く仏像に修復して欲しいという依頼もあり、他方、美術品としての修復の際は、新しく創った箇所と手を加えていない箇所の、つなぎ目を馴染ませるための仕上げにする大事な作業が、元々、その仏像についているホコリを振りかけることだというのですから、これも驚きです。

絵の具や漆、木の粉など、色々な素材で古い箇所の色に近づけても、ホコリを一振りするかしないかで、出来映えが全く異なってくるそうなので、ぜひ、ホコリ仕上げ前、仕上げ後を拝見したいものだと思いました。

このように、修復の方向性が様々あるように、修復の仕事相手もまた様々で、私たちが京都などで拝観するような文化財ばかりではなく、ねずみにかじられて、内部がねずみの巣と化してしまった仏像、カビが生えたり、腐ったりしている仏像、きのこまで生えている仏像、もはや仏像の形をなしていなく、組み立て前のプラモデルのように、パーツがばらけてしまった仏像など、仏像修復の仕事場では、多種多様な出会いがあるそうです。

確かに、日本には文化財や美術品、あるいは純粋な拝礼対象として守られている仏像よりも、お寺がつぶれて、所有者が曖昧になり、地域での管理行き届かず、放置されている仏像の方が多いのかもしれません。

実際、価値のある仏像でも、修復費用の問題で県指定文化財に登録できず朽ちていくという悲しい事実もあります。それは、地方自治体の財政状況だと、仏像修復にあてる費用を捻出できず、価値のある仏像だと申請しても「修理すれば文化財に登録してもいい」という判断になりがちで(修理前に登録されてしまうと、自治体が費用を出さなくてはならないからだそうですが)、小さな集落や寄り合い等で管理している人たちにとっても、修復費用は大金なので、やむを得ず、手つかずの状況となってしまっているそうです。

このような仏像は、その地域だけに限らず、たくさんの人に理解を得る活動を通して、地道に寄付や協力を求めて費用をかき集めるしかありません。しかしながら、これも地域の人にとっては負担の大きいことで、なかなか難しく、ただ壊れて行くのを待つことも少なくありません。

私は冒頭、修復をしてくれる人がいるからこそ、いにしえの素晴らしい仏像を現代でも拝見することができると述べましたが、筆者は本書で、以下のように語っていました。

仏像が時を超えられるのは、修理のおかげでもあるが、実はもっと大切なことがある。仏像は早くて数十年、長くても数百年も経てば、どんなに保存状態が良くても少しずつ壊れていく。それが現在まで残っているのは、人の想いの連鎖があるからだ。仏像を大切に思い、信じて、残していきたいと願う-そいういう想いがないと、仏像は消えていってしまう。

“人の想いの連鎖があるから”

本書は、私のように京都好き、仏像好きではなくても、分かりやすく読めるよう、仏像とプラモデルの比較し、相違点を挙げるなど、丁寧な基礎知識の説明もありながら、仏像の修復という仕事を、ユーモアな文章で、興味深く教えてくれる一冊です。これまで仏像に関心がなかった方でも、無理なく読める内容になっていますので、一人でも多くの方が、この本をきっかけに、仏像を後生に伝えていきたいという想いを持ってくださり、ぜひ、助けを求める仏像に出会あわれた時には、手を差し伸べてくださればと願います。

実際に自分が仏像修復の仕事をしていなくても、誰もが、次の世代への、バトンの渡し手となれる。私は、そう思いました。

(藤野あゆみ)

仏像のお医者さん』 PHP文庫

 

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