KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

今月の1冊

2023年06月13日

ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

ダロウェイ夫人
著:ヴァージニア・ウルフ(著)、丹治 愛(翻訳); 出版社:集英社文庫; 発行年月:2007年8月; 本体価格:820円

6月のロンドンはまぶしい。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を堪能した後、ハイドパークをぐるりと半周して、ナイツブリッジへ。サウス・ケンジントンからハロッズまではすぐだけれど、敢えて遠回りしたい。6月のロンドンには、そうさせる魔力がある。
10年ほど前、私は1年半をロンドンで過ごしたが、この季節が一番好きだった 。日は長くからりと暖かで、何よりグリーンが美しい。ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』も、1923年6月のある水曜日を書いたものだった。ふとそれを思い出し、6月に呼ばれるようにして手にとった。

『ダロウェイ夫人』は、第一次世界大戦後のロンドンでパーティーを開くクラリッサ・ダロウェイの一日を描いた小説である。物語は、ウェストミンスターの邸宅に住むクラリッサが、主催するパーティー用の花を自ら買いにボンド・ストリートの花屋へ向かうところから始まる。ロンドンの街は大戦の痛みがまだ残るものの、社交シーズンを迎え生命力にあふれている。私は現代のロンドンしか知らないが、その情景にどこか懐かしさを感じた。

 いまは六月なかば。大戦も終わった。……ありがたいことに、終わったのだ。……そしてまだ早朝だというのに、どこもかしこもポニーに鞭打つ音とそのギャロップの足音、クリケットのバットの爽快な音があふれている。……そのすべてが、柔らかいヴェールのような、灰色がかったブルーの朝の空気に包まれている。……でもなんて奇妙なんだろう、セント・ジェイムズ公園に足を踏み入れたとたんの、この静寂、この家、かすかなざわめき、のんびり泳ぐしあわせそうな鴨、よたよた歩くペリカン。

「意識の流れ」という手法によって書かれたこの小説は、クラリッサを中心に、国会議員の夫リチャード・ダロウェイ、かつての恋人ピーター・ウォルシュ、友であり恋愛の対象でもあったサリー・シートンなど、様々な登場人物の一人称と三人称、さらに青春時代と現在をも行き来しながら、目まぐるしく進んでいく。クラリッサの喜びや怒り、恐れ、登場人物のクラリッサへの思いが、からまりながら流れ込んでくる。

クラリッサは当時ヨーロッパで爆発的に流行したスペイン風邪を患って以来、心臓に後遺症を負っている。白髪も増え、51歳となったクラリッサの老いへの意識、虚無感や孤独が、みずみずしいロンドンの街と対比するように表現されている。

 なによりもレイディ・ベクスバラのように浅黒い顔色、柔らかくもんだなめし革みたいな肌と美しい目をした女性だったらよかったのに。ところが実際のわたしときたら、豆の蔓をはわせる支え棒のように細い体で、顔は滑稽なほど小さく、鼻は鳥の嘴のようだ。……わたしがまとっているこの肉体は、いろいろな能力をもっているのに、無、まったくの無としか思えない。自分の肉体が透明で、誰にも見えず、誰にも知られたくないという変な感覚。もう結婚することも、子どもを産むこともない肉体。……ミセス・ダロウェイというこの存在。すでにクラリッサですらない。ミセス・リチャード・ダロウェイというだけの存在。

私であって私ではない。リチャード・ダロウェイの妻という立場によってある面では社会的に守られながら、真の自分は誰からも見えず、そして触れられたくもない。そのためかクラリッサは主人公なのに、どこかつかみどころがない。さらにクラリッサの一人称の記述もそう多くなく、むしろ彼女を取り囲む登場人物による様々な評価によって、クラリッサという像が浮かび上がってくるというのも、この小説の興味深いところだ。

リチャードは「彼女には支えが必要だから。弱いということじゃない。しかし支えが必要なんだ。」と考えているし、ピーターは「彼女のなかにはたしかに一本の生命力の糸が通っていて、まれに見る強靭さと耐久力をもつその糸のお陰で彼女はさまざまな生涯を克服し人生を意気揚々と生き抜くことができるのだ。」と信じている。だからこそ今のクラリッサの生き方を、「完全無欠の女主人」と皮肉る。(これには多分にクラリッサへの未練が含まれている。ピーターはいつまでもロマンスを追い求めていて、少年のようで憎めない。そんなピーターと繊細なクラリッサと結婚したら、共倒れになりそうだ。だからクラリッサは、少々堅物でも心の安定したリチャードを選んだのだ。こういうところは永遠のテーマだと思う。)

周囲があれこれとクラリッサを評価し、自己の空虚感はますます加速していく。彼女が大戦後の街の美しいところばかりを見て、言い聞かせるように「大戦は終わった」とくりかえすのは、単に軽薄で俗っぽい性格だからではなく(もちろんこうした面もあるのだが)、自分だけが知る本当の自分を守る術なのだろう。

セプティマス・ウォレン・スミスは、もう一人の重要な登場人物である。第一次世界大戦従軍後、心的ストレスによる後遺症を負った青年で、精神科医に追い詰められ自ら命を絶ってしまう。パーティーに出席した医師がその顛末をクラリッサに語ると、彼女は「わたしのパーティーのまっただなかに死が入り込んできた」と動揺する。わたしのパーティー。わたし自身、ということなのかもしれない。彼女は小部屋にこもり、思案する。

 わたしたちは生きつづける――(もうもどらなければ。部屋にはまだたくさんのお客さまがいらっしゃるし、まだまだ新しいお客さまがおいでになる)。わたしたち(今日一日、たえずブアトンのこと、ピーターのこと、サリーのことを思い出していた)、わたしたちは年をとってゆく。だけど大切なものがある――おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされてゆくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。

窓の外から見える向かいの部屋では、おばあさんが静かにベッドに入ろうとしていた。生の象徴でもあるパーティー最中に見るこの光景を、クラリッサは魅力的だと感じる。そしてビッグベンの鐘の音が鳴る。物語の中で何度も登場する鐘の音は、時間的な支配を示しているのだろう。しかしクラリッサは、もう老いを恐れてはいない。間接的に自身の身代わりとなったセプティマスを思い、「彼のおかげで美を感じることができた」と感じながら、パーティーへと戻る。そこで待っていたピーターの心中で、小説は終わっている。

 このぞっとする感じはなんだろう?この恍惚感は?彼は心のなかで思った。おれを異様な興奮でみたしているのは何だろう?
 クラリッサだ、と彼は言った。
 そこに彼女がいたのだった。

ミセス・リチャード・ダロウェイではない、クラリッサ・ダロウェイが戻ってきたのだ。生へと回帰し時の流れを受け入れた彼女は、パーティーが終わっても生き続ける。

ロンドンの街では生と死が響き合う。この街の美しさの源は、ここにあるのかもしれない。あらゆるものが終わりを迎え、しかしその街並み、空気、音や香りの中に、時を越えて保存されている。10年前の私は、自身を取り巻く評価や期待、すべてのわずらわしさから逃げるように、ロンドンへの留学を決めた。不便で、厳しく、理不尽な生活が、自分の人生の舵取りは自分でするものだと繰り返し教えてくれた。そのたびに私が小さく生まれ変わるのを、ロンドンの街だけが見ていてくれた。2014年の6月、街のさわやかな空気に見送られながら、ヒースロー空港を発った。

もう一度6月のロンドンの陽光を浴びに行きたいと思う。今度はこの小説を片手に、ウェストミンスターからボンド・ストリートを歩くのだ。

(内田紫月)

ダロウェイ夫人
著:ヴァージニア・ウルフ(著)、丹治 愛(翻訳); 出版社:集英社文庫; 発行年月:2007年8月; 本体価格:820円
メルマガ
登録

メルマガ
登録