今月の1冊
2025年06月10日
山本 雅史著『勝利の流れをつかむ思考法』
日本にはトヨタ・ホンダ・日産といった世界的な自動車メーカーがいくつも存在しますが、残念ながらモータースポーツ全般の人気はそれほど高いとは言えません。とはいえ、「F1(フォーミュラーワン)」に限って言えば、これまでに何度かのブームが起こっています。F1に詳しくない方でも、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハの名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。彼らはF1界を代表するレジェンドであると同時に、日本でF1が盛り上がった時期に活躍していたことで、その名を広く知られるようになりました。
一方で、同じく偉大な現役ドライバーであるルイス・ハミルトンやマックス・フェルスタッペンの名前を以てしても、国内における一般的な認知度ではセナやシューマッハに及ばないのが現状です。
ところが今、F1が再び脚光を浴びようとしています。きっかけとなったのは、今年で参戦5年目を迎える角田裕毅選手のトップチーム「レッドブル」への電撃的な移籍です。これは、2025年シーズン前半の最大の話題のひとつとなりました。
F1という競技は、ドライバーの腕だけでなくマシンの性能によって結果が大きく左右されます。優勝の可能性があるかどうかという点では、上位チームの数台を除いて走る前からほぼゼロに近いと言ってしまっても過言ではないほどです。
そうした中で、角田選手が移籍したレッドブルは近年のF1界を席巻する常勝チーム。しかも、チームメイトは4年連続で世界王者に輝くマックス・フェルスタッペンです。
今年のレッドブルのマシンは例年ほどの圧倒的な強さはないとされているものの、日本グランプリでのフェルスタッペンの優勝は、その底力と可能性をあらためて証明しました。
同じチームとなった角田選手がこの舞台でどこまで戦えるのか。日本人初の優勝、さらにはワールドチャンピオンへの期待がかつてないほど高まっています。
さて、前置きが長くなりましたが、今回ご紹介したいのは、そんなF1の裏側をリアルに描き出した一冊、山本雅史氏による『勝利の流れをつかむ思考法』です。
著者の山本氏は、ホンダ第4期F1プロジェクトのマネージングディレクターとしてF1の最前線に身を置いてきた人物です。本書ではF1という極限の競争環境を通じて、現代のビジネスパーソンが直面する課題にどう立ち向かうべきか、そのヒントが数多く語られています。それらは単なるスポーツノンフィクションではなく、ビジネス書としても高い価値を持つ内容です。
F1が国内のメディアにおいて取り上げられるのは、「セナ対プロスト」の様に分かりやすいドライバー間のライバル関係にフォーカスしたものが大半を占めます。ただし、それはF1という激しい競争環境の一側面にしか過ぎません。
各チームがたった2台のマシンを走らせるために、フェラーリ等のトップチームでは1,000人以上のスタッフが関与し、年間予算は200億円規模にものぼります。全10チームが年間20戦以上にわたり競い合うF1は、まさに「技術・資金・政治」が交差する巨大な国際プロジェクトなのです。
その舞台裏では、メーカー間の技術開発競争だけでなく、FIA(国際自動車連盟)、スポンサー企業、時には開催国政府まで巻き込んだ政治的駆け引きも展開されています。山本氏が指摘するように、その様子は「ピラニアクラブ」という言葉で象徴される苛烈な環境です。
華やかに見える表舞台の裏では日々、各チームの即断即決の意思決定が行われ、政治的な暗闘もある。そこで少しでも気を抜けば、まさにピラニアたちに身を食いちぎられてしまう
そんな熾烈な世界の中で、ホンダの一社員として、山本氏がいかにして存在感を示し、チームを導いてきたのか。本書にはそのマインドセットと実践が生々しく、かつコンパクトに語られています。
たとえば、印象的なのが「コミュニケーション」の重要性を説いた一節です。第4期F1復帰時、ホンダは名門マクラーレンとタッグを組みましたが、期待された成績は残せませんでした。その理由のひとつとして、山本氏は“プロフェッショナルゆえの無言の分業”を挙げています。
山本氏は、どんな仕事においても自らの目で徹底的に観察することを信条とされています。近年ビジネス界でも注目される「OODAループ」――観察(Observe)→状況判断(Orient)→意思決定(Decide)→行動(Act)というサイクル――にも触れ、「すべての出発点は“観察”である」と力説します。
そんな観察の結果見えてきたのは、両者の「コミュニケーション不足」が開発に影を落としているという現状でした。
「コミュニケーション不足」と聞くと、テクノロジーが結果を左右するF1でそんなものが勝負の分かれ目になるのか?と思わる方もいるかもしれない。しかし、最新技術を投入するF1においてもやはり大切になるのは″人″と″組織力″なのである。
自分達の仕事だけに専念する関係性だった。完全な分業制といえば聞こえはいいが、実際は互いの情報はオープンにせず、進捗を共有するだけの状態だった。「お互いがプロフェッショナルなのだから細かなコミュニケーションは必要ない」という考え方に落とし穴があった
お互いをリスペクトし合うあまり、腹を割った議論が不足し情報の共有が疎かになってしまう。そのことが開発に悪影響を与え、ひいては成績にも表れてしまう。
これらは、ジョブ型制度の浸透や各自の専門性の深化が続く現代の会社組織においても、決して他人事ではないはずです。
上記はごく一部の抜粋ですが、この部分だけでもビジネスパーソンが読むに値する本であるということが伝わるのではないでしょうか。
F1という極限の現場で得られた経験をもとに、山本氏は現在MASAコンサルティング・コミュニケーションズという会社を設立し、ホンダから独立されました。あえて社名に「コミュニケーションズ」と冠した理由も、を読むと納得がいくはずです。
この本は、F1ファンのみならず「組織でどう動くか」「変化の激しい時代にどう生き残るか」を考えるすべてのビジネスパーソンにおすすめしたい一冊です。表舞台の華やかさの裏にある熾烈な現実。そこに真正面から向き合った著者の言葉には、現代社会を生き抜くヒントが詰まっています。
(石井 雄輝)
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物理学の最先端研究をご紹介しながら、物理学者の思考法をお伝えします。生活や仕事でクリエイティビティを発揮するヒントとなりましたら。
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