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今月の1冊

2025年07月08日

町田 そのこ著『ぎょらん』


町田そのこ「ぎょらん」

 
ぎょらん
著:町田そのこ; 出版社:新潮社; 発行年月:2023年6月; 価格:850円税抜

死者が残す、イクラのような小さくて赤い「ぎょらん」という玉があるそうです。それは遺体の口や手の中にあって、もし見つけたら、自分の口に入れて噛み潰すと亡くなった人の最後の願いや想いがわかるというものです。都市伝説ではありますが、ぎょらんが恐ろしいのは、故人の想いは必ずしも感謝や良いものばかりではなく、恨みや憎しみの感情の場合もあるということです。

大学時代に自殺した親友のぎょらんを食べ、自分に対するネガティブな想いにショックを受けて10年間ひきこもり、妹の華子からハイクラスクソニートと罵られる30歳の朱鷺をキーパーソンに、大切な人を亡くした人達が描かれた連作短編集です。文庫本では新型コロナウイルスの時期の別れを描いた書き下ろしが追加されています。

朱鷺は母親の病気をきっかけに社会復帰を試み、唯一採用された葬儀会社で働き始めたことで、さまざまな別れの場面に立ち会います。多くの人が、家族や親しい人を亡くすと、悲しさや寂しさと同時に、あの時ああすればよかった、こうすべきではなかったといった後悔にさいなまれます。残された人が悲しみを乗り越えて再生する物語ではありますが、再生の過程では、純粋な悲しみや後悔だけでなく、見たくなかった自身の姿が現われます。

最初の物語では、不倫相手である上司の事故死によって、華子が恋人だと盲目的に信じようとしていた2人の関係が、自身のコンプレックスにつけこまれていただけだったという現実を突きつけられます。仕事に依存する朱鷺の先輩は、自身の不妊症を言えずに別れた元彼に生き方に芯がないと指摘され反論できません。事故で園児を死なせてしまった保育士が抱いたどす黒い感情、母親だと思っていた人が父親の愛人だったという女性の苦しみなど、誰かの死によって知らなかった事実が明らかになり、人の醜い感情を突きつけられます。

死者は何も語らないので、赦しも慰めもくれません。ではどうやって前を見ることができるようになるのか。それが他者という存在です。華子は無茶苦茶な兄の行動によって、朱鷺の先輩は亡くなった恩師の妻が預かっていた手紙によって、保育士は若くして病気で死んでいく夫によってなど、近しい関係の人から直接は知らない間柄の人まで、誰かとかかわる中で、思うようにはいかなくとも、一歩を踏みだす方向をどうにか見出します。

登場人物の全員が朱鷺によって何かしらつながっているという設定に、人間関係が近すぎない?と途中まで思っていました。しかし、終盤の物語で朱鷺と華子の母親がエンディングノートに書き残した『時に誰かの救いとなり、時に救われて、笑って生きてください。あなたたちは、それができる』というメッセージによって、物語に登場する親子、兄弟姉妹、友人、同僚、先輩後輩といった近しい人間関係は現実にありふれていて、だからこそ非常に現実味のある物語へと変わりました。

困っている人がいたらできる範囲で助ける。自分が困ったときは助けを求める。前者はすんなりできても、後者は迷惑になるのではないかと遠慮する人は少なくないと思います。
私は問題に対して良く言えば自己解決を試みる、悪く言えば抱え込む傾向がありますが、それが全くできなかったのが母の介護でした。高齢者と暮らした経験がなかった私には、母が老いていく姿と、それに対する私の責任の重さと苛立ちの感情に耐えられず、各種介護サービス、会社、家族、友人とめいっぱい助けを求めました。
中でもコロナ禍でデイサービスが使えなかった時期、訪問ヘルパーさんとのちょっとした会話で緊張がゆるみ、呼吸がしやすくなったことは強く覚えています。でもヘルパーさんは仕事として訪問している先で、家族が救われていたとは知らないと思います。

先月母は亡くなりました。施設から連絡を受け、母の居室で医師の到着を待ち、兄が葬儀屋さんへ連絡している間に、少し空いた口を覗き、まだ温かい手をとりましたが、残念ながらぎょらんらしきものはありませんでした。母の場合はそもそも突然訪れた死ではなかったからかもしれません。

私の方も、大きな喪失感や後悔は今のところありません。ふとした時に、もういないんだなと感じる寂しさや介護生活中の小さな後悔はそれなりにありますが、十分すぎる別れの猶予期間を得て、私ができることはすべてやった(やれないことはやれないことだから仕方ない)という実感があります。母の旅立ちを助けてくださった皆様、ありがとうございました。

三週間後は四十九日。暑いんだろうな。

(今井)



町田そのこ「ぎょらん」

 
ぎょらん
著:町田そのこ; 出版社:KADOKAWA; 発行年月:2023年6月; 価格:850円税抜
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