今月の1冊
2025年08月12日
小林 誠編著『宇宙はなぜ物質でできているのか 素粒子の謎とKEKの挑戦』
「宇宙」への興味
皆さんは、「宇宙」と聞いて何を思い浮かべますか?
NASAのロケット、ブラックホール、星座占い、あるいは『宇宙兄弟』や『スター・ウォーズ』かもしれません。私自身にとって宇宙や星はどこかロマンチックで、遠くて、現実味がないもの。正直、特段興味を持つこともなく日常を過ごしてきました。
それが一変したのは、今年3月に訪れたハワイ島での体験でした。ある晩、ツアーガイドに案内されて向かったのは、人工の明かりが届かない山の上。そこで見上げた夜空は、文字通り息をのむほどの美しさでした。360度、空いっぱいに広がる星々。それまで遠いものだと思っていた宇宙が、急に身近な存在に感じられました。
そして手に取った一冊
その後しばらくして、茨城県つくば市にある高エネルギー加速器研究機構(KEK)を訪れる機会がありました。皆さんは、岐阜県にあるカミオカンデという施設の名前を聞いたことがあるかもしれません。カミオカンデはニュートリノという素粒子を観測する巨大な装置ですが、KEKもまた素粒子物理学という分野を通して、宇宙の起源や成り立ちに迫ろうとしている最前線の研究拠点です。
私は先日、そのKEK一般公開イベントに参加し、一冊の本を手に取りました。
それが、『宇宙はなぜ物質でできているのか 素粒子の謎とKEKの挑戦』です。
タイトルを目にしたとき、私は思わず「どういう意味だろう?」と考え込んでしまいました。私たちが暮らすこの宇宙が物質でできているのは当たり前だと思っていたからです。なぜその“当たり前”をあえて問い直すのか――その違和感が、私の中でじわりと好奇心を膨らませていきました。
あの星空を見上げて以来芽生えていた漠然とした関心が、この問いに出会ったことで、「自分も少しでも理解してみたい」と思う具体的な興味へと変わっていったのです。
本書に描かれる研究者たちの姿
素粒子物理学の分野では、1930年代から60年代にかけて、従来の理論では説明できない新しい現象が数多く発見されました。その混乱を理論家が約10年かけて整理し、標準理論という体系を築き上げました。その後さらに40年をかけて、実験家たちがそれを検証してきました。理論と実験が互いに刺激し合い、補い合いながら、現在の素粒子物理学という体系が形づくられてきたのです。
いま21世紀を生きる物理学者たちには、その「知の系譜」を絶やさず、次の世代へとバトンを渡す責任があると筆者は語ります。
私たち物理学者は、この分野の長い歴史に対して責任を負っています。21世紀の素粒子物理学に取り組む私たちには、多大な努力によってそれを築き上げてきた先人たちに対する責任があるのです。
100年後、200年後の研究者たちに『20世紀の物理学者は頑張ったが、21世紀の物理学者はふがいなかった』などと言われたくはありません。
これは科学を“いまこの時代”だけのものとして捉えるのではなく、長い時間の流れのなかで連綿と続く「人間の問いの営み」として捉えているからこそ出てくる言葉だと感じました。
この本に登場する研究者たちは、皆“今”を生きながらも、“過去”の挑戦を継承し、“未来”の研究者に向けて知のバトンをつなごうとしています。研究とは、個人の名誉や結果の積み上げではなく、「まだ誰も見たことのない仕組みを、自分の手で確かめたい」という静かな情熱の連なりなのだと、深く印象に残りました。
研究には膨大な時間と費用がかかり、すぐに成果が出るとは限りません。
生活に直結するわけでもなく、即効性やビジネス的なリターンが期待される分野でもありません。
それでも研究者たちは、自らの問いを手放さず、実験を重ね、理論を練り直し、仲間と議論を重ねています。
その姿は、私たち人間が本質的に「なぜ?」と問い続ける存在であることを思い出させてくれます。
「知りたい」がつなぐ物語
この本を読みながら思い出していたのが、漫画『チ。―地球の運動について―』です。舞台は中世ヨーロッパ、地動説を唱えることが禁忌だった時代。そこでは、信仰や常識、権力に抗いながらも、「真実を知りたい」という思いだけを頼りに、世代を超えて真理を追い求めた人々の姿が描かれます。彼らはその思いを次の時代へ託し、「知の系譜」を絶やすことなく、静かにバトンをつないでいきます。
そしてもう一つ思い出したのが、『Outer Wilds』というインディーゲームです。プレイヤーは小さな宇宙探査者となり、繰り返される時間の中で古代文明の痕跡と宇宙の謎を、少しずつ解き明かしていきます。限られた時間のなかで知識を積み重ね、手がかりを頼りに進む旅。その全てが、「知りたい」という思いだけを原動力に進む点で、この本を読んだ体験と重なりました。
「好奇心は猫をも殺す(Curiosity killed the cat)」という過剰な興味をたしなめる言葉があるくらいに、知的好奇心というものは人間という種族をそれたらしめる、本質的な欲求なのではないでしょうか。本書やこれらの作品に描かれる人々の姿を見て私はそれをつよく実感しています。
知りたい。だから、問い続ける
『宇宙はなぜ物質でできているのか』は、素粒子物理を通して科学者の精神に触れられる一冊です。
「なぜ宇宙は物質でできているのか?」という問いに対して、様々な科学者たちがKEKを舞台にどれほどの知恵と時間とエネルギーが注いで立ち向かってきたかを垣間見ることができます。
宇宙の謎を追う科学者たちの姿は、フィクションの世界だけの話ではありません。実際にこの国で、真剣に、根気強く、「なぜ?」に向き合っている人たちがいるのです。
そして、その姿は、私たちの日常にもつながっているように思います。何気ない「どうして?」を大切にできること。分からないことを、分かろうとすること。それこそが、私たちの知性であり、人間らしさなのではないでしょうか。
いつかこの問いに、明確な答えが見つかる日が来るのかもしれません。でも、たとえそうでなくても、その探求の道のりそのものが、とても豊かで、価値のあるものなのだと思います。
(仮屋)
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