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今月の1冊

2026年02月09日

西尾 維新著『掟上今日子の備忘録』



掟上今日子の備忘録
著:西尾 維新; 出版社:講談社; 発行年月:2014年10月; 価格:1,250円税抜

「もし明日記憶がリセットされるなら、今日をどのように生きようか?」——探偵モノの推理小説でありながら、このような人生への問いを投げかけてくれる作品でもあると思う。

私は2015年に放送されたドラマ版がとても好きで、最近も配信で繰り返し観ている。ドラマ版があまりに魅力的なので、原作とはどのような違いがあるのかが気になり、今回改めて原作小説を手にとった。

この物語の主人公は、掟上 今日子(おきてがみ きょうこ)。25歳だが、総白髪で眼鏡をかけた美女の探偵である。彼女は眠るたびに記憶を失うという特異な体質を持ち(前向性健忘症の一種とされる)、そのため「最速の名探偵」「忘却探偵」と呼ばれている。ドラマ版では新垣結衣さんが演じており、そのビジュアルも強く印象に残る。

もう一人の重要な登場人物が、この物語のストーリーテラーでもある、隠館 厄介(かくしだて やくすけ)。今日子さんと同じく25歳で、190cm以上の巨漢。気が優しくて気弱な性格であり、幼い頃からなぜか事件に巻き込まれ、しかも犯人扱いされてしまうことが多い。そこで探偵を呼び、無実を証明してもらう——その役目を担うのが今日子さんである。ドラマ版では岡田将生さんが演じている。(「巨漢」ではなく、スレンダー!)

今日子さんは、ある時期以降の記憶をすべて失っており、目覚めたときに、寝室の天井に書かれた「お前は今日から、掟上今日子。探偵として生きていく。」という文字を見て、自分が何者であるかを知る。依頼があれば外に出かけるが、眠ればすべてを忘れてしまうため、基本的に1日以内で解決できない事件は引き受けないし、事前予約も受け付けない。しかしその代わり、起きている間の記憶力と推理力はずば抜けており、事件解決のスピードに定評がある。また、依頼されたという事実そのものを忘れてしまうため、守秘義務の徹底という点でも信頼が厚く、警察など公的機関からの依頼も多い。

突発的な事件に巻き込まれがちな厄介さんにとって、今日子さんは「五本の指に入る名探偵」であり、彼が彼女を呼ぶところから物語は始まる。
「研究所内で重要データが入ったSDカードが盗まれる」
「作家が100万円を盗まれ、代わりに1億円を請求される」
といった事件が描かれ、会話劇を中心に展開される短編推理小説として、テンポよく読み進められる構成になっている。
ドラマ版では、原作のエッセンスを大切にしながらも登場人物が増え、厄介さんと今日子さんの間にラブストーリー要素が加わる。そのことで、「今日を大事に生きる」というテーマが、前面に打ち出されているように感じる。

厄介さんは、何度も今日子さんに容疑を晴らしてもらううちに、密かに彼女へ想いを寄せるようになる。しかし今日子さんは、会うたびに「初めまして」と名刺を差し出す。厄介さんが勇気を出してアプローチしても、「そういうの、パスです」ときっぱり断る(ドラマ版)。
今日子さんには“今日”しかない。思い出も、先の約束も必要ない。だから恋もしない。今日あった嫌な出来事や、恥ずかしい失敗も、眠って起きればすべて忘れてしまう。自分が覚えていないのだから、他人が覚えていようと気にする必要はない。大切なのは、今日をどう充実させるか——それはそれで、ひとつの幸せな生き方なのかもしれない。

自分の生活を振り返ってみると、私はいかに過去の記憶と未来の予定に支えられて「今日」を生きているかに気づく。昨日の失敗を反省し、今日は改善しようと思う。友人と会えば昔話で盛り上がり、やりきれなかった仕事は明日の朝に回し、半年先の旅行を楽しみに日々を頑張る。もし記憶を失ったら、私はどんなふうに生きるのだろうか。

「記憶を失う」というのは身近なテーマで、物忘れや認知症など、誰にとっても決して他人事ではない。以前、夕学講演会で人工知能研究者の黒川伊保子さんが「物忘れは老化ではなく進化」だと話されていたのを思い出した。40歳前後から不要な情報を手放し、30代の混迷が消えていく。そして脳のピークは56歳から始まるのだという。

今日子さんほど極端ではなくても、少しずつ記憶を失っていくことは人間にとって自然なことであり、だからこそ、「今日」を大切に生きることの意味を、この作品は静かに教えてくれるような気がする。

別の映画作品では、1日で記憶を失う少女が毎日の日記を読み返し、「昨日の自分の続き」として生きていた。それもとても素敵だが、私は今日子さんの潔い生き方が好きだ。もし同じ境遇になったら、1日の中で自分の役割をきちんと果たし、他者と自分を少しでも喜ばせることに力を注ぎたいと思う。

ここで、原作の中でも特に心を打たれたシーンを紹介したい。初めて私が厄介さん側に感情移入した場面だ。
ある事情から、厄介さんは今日子さんに謝らなければならない行動を取ってしまう。

「僕が今回、あなたにしてしまったこと。あなたに働いてしまった数々の裏切り、不実。この通りです、どうか許してもらえないでしょうか」
今日子さんはそれを聞いて、驚いたように目をぱちくりとした——その話はもう済んだはずだと言いたげだ。
「やだなあ、気にしなくていいって申し上げたじゃないですか。許すも何も、明日になれば私は——」
「僕は」
今日の今日子さんに、許して欲しいんです。
そう言って、ひたすら頭を下げ続ける——(略)
今日子さんには今日しかないと言うのなら、その今日のうちに(略)謝るのも許してもらうのも、今日のうちだ。忘れられる前に、仲直りしたい。たとえ、明日にはなくなってしまう関係だとしても。
「今日の今日子さんに許すと言ってもらえなければ、僕は明日の今日子さんに、助けを求められない。それが嫌なんです。あなたが忘れても、僕が覚えている」

だが、今日子さんは、厄介さんの行動に怒ってなどいない。むしろ安心していたのである。

「私の記憶は一日ごとにリセットされますが、それはあくまで『脳』の問題です。(略)つまり——体験したことは身体が覚えています。私がそんな風に安心して無防備に隠館さんに身を任せられたのは、隠館さんがこれまで、私に優しくしてくれていたからでしょう。」
(略)
嬉しかった。
許してもらえたことだけじゃあない——これまで、今日子さんと何度となく築いてきた関係が、築いては忘れられてきた関係が、決して無駄ではなかったことが、嬉しかった。

なんとも厄介さんの誠実さが滲み出ているこのシーンを読んで、身近な人も、仕事で少しだけ関わる人も、すれ違う誰かに対しても、自分があとから振り返って後悔しない行動を選びたいと思った。そしてできるなら、相手にとって今日1日が「いい日だった」と感じてもらえるような関わり方をしたい。

最後に、あえて冒頭でドラマ版の俳優名に触れた理由を記しておきたい。引用部分を読んだとき、自然とガッキーと岡田将生さんの声で再生されていたのではないだろうか。
登場人物の名前がなかなか覚えられず、映画公開前の『ハリー・ポッター』シリーズも冒頭で挫折した私にとって、顔と声が浮かぶ状態で小説を読めるのは、物語に没頭する大きな助けになった。先入観を持たずに読む楽しみももちろんあるが、「映像版→原作」という順番ならではの読書体験も、確かに存在する。
原作の魅力をさらに膨らませ、よりファンタジックに描いたドラマ版からは、脚本家という仕事の凄さも感じられた。
『掟上今日子の備忘録』を第1巻とした「忘却探偵シリーズ」は、現在15巻まで刊行されている。ドラマの続編というかすかな望みを胸に抱きつつ、第2巻以降にも手を伸ばしてみたい。

(竹内)

[参考]
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掟上今日子の備忘録
著:西尾 維新; 出版社:講談社; 発行年月:2014年10月; 価格:1,250円税抜
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