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夕学レポート

2015年01月13日

佐藤 卓己「民意のリテラシーにむけて―「世論の輿論化」を考える」

佐藤 卓己
京都大学大学院教育学研究科 准教授
講演日時:2014年6月20日(金)

佐藤 卓己

佐藤氏は「メディア論」を専門とする歴史学者で、この講演では、本来「パブリックオピニオン(公論)」という意味で使われていた「輿論(よろん)」が、明治以降「ポピュラーセンチメンツ(民衆感情)」を意味した「世論」と混同されるようになり、さらに戦後においては「公論」よりも「情緒論」としての意味合いに、使われ方が傾いていった経緯を解説してくれました。
 
佐藤氏によれば、そもそも「輿論」(よろん)とは、人々がなんらかの対象に対して持っている「意見」や「考え」であり、そこには個人としての責任が伴うものでした。したがって輿論は、「天下の公論」とも言われていました。
 
一方、「世論」は、明治時代に生まれた新しい言葉です。従来は「せろん(あるいは「せいろん」)」と呼ばれていました。世論は、対応する英語が「ポピュラーセンチメンツ(民衆感情)」であることからわかるように、好き・嫌いのような「感情」や「気分」のことを指しました。いわば、その時々の状況において人々が共有する「空気」のようなものです。したがって世論に対する個人としての責任は軽く、以前は「外道の言論、悪論」とまで言われていたのです。
 
実際、明治天皇が示した明治政府の基本方針である『五箇条の御誓文』では、第一条で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と、公儀輿論(人々の意見を取り入れて政治を行うこと)が唱えられました。一方で、世論について『軍人勅諭』では、「世論に惑わず、政治に拘らず」という言葉があります。
 
また、第19代内閣総理大臣の原敬の輿論および世論に対する考え方は、「原敬日記」によると次のようなものだったそうです。

輿論とは、政治にとって背いてはならないもの、喚起すべきもの、代表されるべきもの、賛成を促すべきものとして捉えられている。(中略)「世論」というものは「騒然」としていて「喧しき(やかましき)」ものであり、したがって時には「煽動」されたり、また逆に「鎮静」されるべきものとされていた。
(住友陽文「近代日本の政治社会の展開」『日本史研究』)

 
以上のように、輿論と世論は本来は明らかに異なるものでした。しかしながら、佐藤氏は、ラジオや新聞といったマスメディアの普及が進むことによって「輿論の世論化」が進んでいったと指摘します。ラジオや新聞は1930年代くらいから急速に浸透していきます。こうしたメディアは、人々の責任ある意見としての公論を形成するための議題設定の役割を果たしており、「輿論指導のメディア」と考えられていました。
 
しかし、輿論指導のメディアが広く一般大衆に普及したことにより、徐々に人々の感情、空気といったものを反映する「世論反映のメディア」としての様相を深めていきました。そして、とりわけ、第二次世界大戦中には、国民の反米感情を喚起したり、国威を高揚するための政治的な道具としてマスメディアが利用されたのです。

実際、戦時中、これらのメディアを通じた「輿論調査」が何度か行われていますが、1943年の輿論調査では、米国の実力に対して、「相当なものだ」という認識が75%にも上っていたにも関わらず、「長期戦についてどう思うか」という問いには「まだまだやれる」が95%に達しており、客観的な現状認識と、感情的な判断、言い換えると、当時の日本国民が共有する「空気」には大きなかい離があったことがわかります。輿論調査と言いながら、調査によって把握され、またコントロールしようとされていたのは、民衆感情、すなわち「世論」であったというわけです。
 
さて、戦後の1946年、当用漢字表が告示され、「輿」の使用が制限されることとなりました。そこで、「輿」の代用として「世」が充てられることとなり、「輿論」が「世論」と表現されるようになったのです。そして、「世論」の読み方についても、新聞を始めとするマスメディアでは、「よろん」と読むことで統一されたのです。こうして、輿論と世論の区別が表現的にもできなくなったことにより、輿論の世論化がますます進んだと考えられます。つまり、責任ある意見である「公論」よりも、「情緒論」が世の中に対して大きな影響力を持つようになっていったのです。
 
佐藤氏は、こうした輿論の世論化に対して危惧を抱いています。なぜなら、世論とは前述したように大衆が共有する「空気」のようなものであり、それに対する批判を行う者は、「空気が読めない人」として否定されてしまう可能性があるからです。つまり、情緒論である世論に対する異論・反論は実質的に封じられており、理性的な討議を通じた民主政治が成立しにくい状況にあるのが現代日本です。
 
そこで、佐藤氏はメディアリテラシーを高めることで、世の中の意見や考え方について、それは果たして「世論」なのか「輿論」なのかと自問する複眼的思考を行うことを提唱しています。すなわち、ある人々の意見が、無責任な空気なのか、それとも責任ある意見なのかを見極める力を持つということです。
 
戦前から戦中、戦後を通じてマスメディアの普及に伴って進行した「輿論の世論化」とは、「政治の大衆化」でもありました。実のところ、十分な教養を持ち、責任ある意見が述べられる人は限られており、その他の人々は感情的な反応、共感を示していることが多いのです。しかしながら、その場限りの感情=世論による政治はファシズム的な方向に行きがちであり、民主主義的ではありません。やはり、長期的な視点に立った、理性的な議論に基づく合意形成による「輿論」主導の政治こそが真の民主主義であると言えます。
 
佐藤氏は、戦時中の日本のファシズム的政治体制において、輿論が実質的に「世論」(民衆感情)に置き換えられてしまった過去を踏まえ、今こそ、本来の意味での「輿論の復員」が必要だと、歴史学者として主張しているのです。
 
折しも、現内閣が主導する、集団的自衛権の行使に対する憲法解釈変更を巡って議論百出の今、「輿論」と「世論」の違いを理解できたことは大きな学びとなりました。
 

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