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夕学レポート

2016年12月13日

原 晋「東京オリンピックに向けての陸上改革」

原 晋
青山学院大学陸上競技部監督
講演日時:2016年6月30日(木)

原 晋

原晋監督に聴く、覚悟を伝える言葉の襷リレー

東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」。
昨年、そして今年と、圧倒的な強さで完全優勝を果たしてきたのが、原晋監督率いる青山学院大学陸上競技部である。しかしその強さは一朝一夕に培われたものではない。原監督が就任以後十年をかけて作り上げてきた強さ。その背景には、原監督自身の半生が反映されている。

折々に、周囲の人の言葉が原監督を動かしてきた。

駅伝の名門である広島県の世羅高校では全国大会準優勝を果たしたものの、中京大学体育学部時代は目立った成績もなく、陸上部の一期生として採用された中国電力では1年目から故障、監督との衝突もあって5年目の27歳で引退を余儀なくされる。
この時、自分を採用してくれた人事課長からの送別の言葉を、原監督は読みあげた。

「陸上では花開かなかったが、陸上を辞めてからもおまえの生き方はみんなにずっと見られている。しっかりやるんだぞ」

そうして、一般社員として、高卒の新入社員と同じレベルの仕事から再チャレンジを始めた。
10年間に及んだ中国電力でのサラリーマン生活は、陸上とはまったく無縁のもの。
その中で、当初は一般社員とは逆に異動のたびに傍流組織に追いやられ、ついには会社の一番下部組織サービスセンターまでも経験。
しかしそこで、自称「伝説の営業マン」と呼ばれるほどの業績を残したうえ、新規事業を手掛ける子会社の立ち上げ要員5人のうちの一人にも抜擢される。
一度は組織でダメ社員のレッテルを貼られた人間が、組織の中で再び輝きを取り戻そうとしていた。

そんな折、取引先の社員であり高校の後輩であった人物から、「青学が、箱根駅伝出場のために監督候補を探している」という話が跳び込んで来た。青学陸上部OBだったその人物は、もとは自らへのオファーだったその話を原監督に譲ったのだった。

だが先述の通り、原監督は青学OBではない。他の箱根駅伝出場校OBでもなければ、箱根で走った経験もない(テレビ中継すらほとんど見たことがなかった)。そもそも監督はおろか、コーチの経験もない。
ないないづくし、箱根駅伝出場校の監督としては極めて異色の経歴。だが青学側は、監督就任のための面接で優勝に至るまでのビジョンを熱く語ったこの36歳の営業マンに、賭けた。

青学側がOKを出しても、今度は周囲の猛反対にあった。とりわけ、地元広島で知り合い、広島で家と仕事を持ち、そもそも夫が陸上の選手だったこともよくわかっていなかった妻の驚きと戸惑いはことのほか大きかった。だが原監督は、思いの丈を熱心に妻に伝え、口説いた。

ここで原監督は、会場から挙手で選んだ参加者の女性を演壇に上げた。
彼女の朗読で、「その時に背中を押してくれた妻の言葉」が、会場に染み込むように広がる。

「その時、彼女に言われた言葉は、いまでも忘れられない。

『でも、私がいま青学に行くのを止めたら、あなたは一生愚痴を言うでしょう。あのときはおまえに行かせてもらえなかった、おまえに行かせてもらえていたらって』(中略)『せっかくこういう話が来てるんだったら、あなたのやりたいようにやったら』

『そうか、賛成してくれるか』

『いえ、反対は反対ですけどね、一生愚痴を聞かされるぐらいなら、思い切って勝負してみたら、ということよ』

そういう言い方で、妻は私の背中を押してくれたのだった。」

青学とは三年間の嘱託契約。三年で結果を出せなければ即契約終了である。
妻のためにも、ダメになった時は中国電力に戻る道を確保できないか、と原監督は考えた。話を親会社に持ち掛けたが、当然、そんな都合のよい話はないといって断られる。
そのやりとりが、勤務先である子会社の社長の耳にも入った。

ここで再び原監督は、会場から男性一人を募り、壇上に呼んだ。
男性の朗読する「覚悟を持たせてくれた社長の言葉」が、会場に響き渡る。

『おまえ、青学に行くのに、中電からの出向を希望しとるらしいな』

ええ、そうですけど、とうなずいた私に、吉屋さんはこう畳みかけた。

『そんな宙ぶらりんな状態で行って、簡単に出られるんが箱根駅伝なんか。箱根というのはそんなに軽いもんか。中途半端な気持ちでも出られる程度のもんじゃったら、出たっておもしろくも何ともないな。わざわざ東京まで行く必要もないと思うで。
人生の決断いうのは、そんなもんじゃないじゃろう。退路を断って挑戦してこそ、素の人間が出る、本当の力が発揮できる。だいたい、出向なんかで行ってみろ、今時の学生はすぐ足下を見透かしてきよるから。ああ、こいつはダメだったらすぐに広島へ逃げ帰るつもりだと思われるだけじゃ』

「行くからには覚悟を持て」、と言うこの社長の言葉を胸に、原監督は退路を取って上京し、クビ寸前の状況も経験しながら、掲げたビジョンのステップをひとつひとつ叶え、最後はチームを優勝へと導いた。

いや、並みの監督なら「箱根駅伝優勝」が最後の目標なのだろうが、現役時代からハコネの物語とは縁遠かった原監督にとって、ハコネの優勝は手段に過ぎないのかもしれない。
では原監督の目標はなにか。それは、演題に掲げられた「東京オリンピックに向けての陸上改革」であり、もっとわかりやすく言えば「選手のために、陸上関係者の古い価値観を壊し、華と夢のある陸上競技界をつくろう」というものである。
「この演題で、人前でお話しするのは初めてです」という原監督の言葉はつまり、300人以上ものビジネスパーソンが聴講するこの機会に、自らのビジョンを発信し、夢の実現に向けて将来の「伴走者」となってくれる人間を一人でも多く増やすことが、当夜の原監督の目的であったことを意味する。

最後に、青学陸上部の寮に貼り出された、行動指針を紹介しておこう。

一、感動を人からもらうのではなく、感動を与えることのできる人間になろう
一、きょうのことはきょうやろう。明日はまた明日やるべきことがある
一、人間の能力に大きな差はない。あるとすれば、それは熱意の差だ

言葉が人を動かす。言葉で人を動かす。覚悟という名の襷を胸に、オリンピックへ、そしてその先へ、原監督はチームを作りながら走り続ける。そこには、孤独な長距離走者はいない。ただ笑顔で駆け抜ける人々の姿だけがある。

(白澤健志)

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