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夕学レポート

2022年08月09日

井手 英策「幸福のための財政改革~ベーシックサービス~」

井手 英策
慶應義塾大学経済学部 教授
講演日:2022年4月12日(火)

井手 英策

熱い人

とにかく熱い講演だった。税制のような硬いテーマはとかく聴く者が覚悟を強いられるような気がするけれど、そうしたことは少しも感じずにあっという間の90分なのである。なぜに井手英策氏はここまで熱いのか。講演の中で明かされた理由は後述しよう。

講演は日本の現状分析から始まる。日本の社会保障は「全体としてはまあまあ」だが、現役世代にとっては自己責任社会。別に貧困層だけがという訳ではなく、富裕層も含めて病気や事故など、不測の事態が起きるかもしれない不安の中に生きているという。どういうことか。「現役世代にとって自己責任社会」とは、子供の学費、住宅、老後の備え、こうした将来の不安に自己負担(貯金)で賄うのが今の日本だと。有名な北欧の、(税の)高負担・高福祉とはよく聞くけれど、哀しいかな日本以外の実態を知らぬ身にとっては長年刷り込まれた日本の制度は「そういうものだろう」との思いがしなくもない。

日本が1%しか成長していないのにも関わらず、与野党双方とも未だに選挙で「分配なくして成長なし」といっているのが「暢気過ぎる」、「私たちの住む、この日本はもはや『発展途上国の一歩手前』の経済状態に置かれているのに未だに『一億総中流』を信じている」と、井手氏は怒りを顕わにする。自分たちが思っている以上に日本は低い経済状態にいることがわかる。日本に住んでいるとどうもその辺りの感覚がわかりにくいけれど、外国人と接するとこの点について思い知らされることが時々ある。でも当の日本人の自己認識としては「中国に抜かれた」感はあるものの、今でも一定世代以上は「アジアのリーダー」を信じていたりもするのだろう。何の悪気もなく。

では、どのような方策があるのか。井手氏はすべての人が受益者となるベーシックサービスの考えを紹介する。ベーシックサービスでは「お金を提供する」のではない。「(子育て、教育、医療、介護などの)サービスを提供する。」税負担が増える代わりに例えば医療費や教育費の負担がなくなる。端的に言えばこれだけのことである。

税収として集まったお金を政府が使えば、政府による消費分は増える。そして負担が軽減された個人は安心して暮らせることになる。2019年10月に消費税が10%に上がった時には個人消費が0.1%落ちた一方で政府消費は伸びている。そして増税後に個人消費が落ちた理由の一つに、増税前の駆け込み需要があることも指摘されている。負担が減った個人の取る行動として、安心してチャレンジすることが考えられるのではないだろうか。子育て、教育、医療、介護など分野は限定されるにしても、将来への不安がなくなれば安心して消費活動だってできる。失業してもしっかりしたセーフティーネットがあれば挑戦しようという気にもなるだろう。それはベンチャー企業への就職かもしれないし、夢だった起業かもしれない。ことさらに大企業への就職を求める理由の一つには失業という名の生活の不安があり、安定を求めているのは確実だ。

もちろん「十分過ぎる」社会保障に対するモラル低下を心配する向きもあるだろうが、対策は考えられるだろう。それよりも積極的に打って出る策を取ろうというのが井手氏の主張だ。わずかな増税で将来への不安を感じずに生活ができる。自己責任社会は、他者への疑いの眼差し(「あの人は不正受給をしているのではないか」)を生む。しかし中間層も受益者となるのなら、むしろこの層の考えは「貧しい人に良くしてあげなさい。(だって自分ももらえるから味方になった方が得)」となる。

すごいなあ、こんな増税の話ならみんな聞くだろうに…と思っていたら井出氏は憤慨して一層熱く続ける。「なのに、選挙では『消費減税』で戦っている。」「増税それすなわちウケが悪い」という思い込みがあるからだ。2019年の消費増税時には、実施後の調査で54%の人が「納得している」のに。エビデンスとかファクトフルネスと叫ばれる世の中であるが、どうも選挙で挑戦的な行動の先陣を切る政治家は稀らしい。これも政治の世界における「失業後のセーフティーネットの有無」と関係あるのだろうか…。

それにしても井手氏は熱い。その語り口には引き込まれる。なぜにそこまで熱く語るのだろうか。講演で明かされたのは原体験である。井手氏の母上はシングルマザーだった。母とその妹である叔母によって井手氏は育てられた。井手氏が大学時代、学費免除がされず苦しんだ時期があったこと、母上が引っ越し先で孤立していたことなどが語られた。そんな時に、もし地元でおせっかいな人が母と叔母の人生を近所の人の前で褒めるようなことがあったら、二人は孤立することなくどれだけ救われただろうという。よくわかる話だ。井手氏が指摘するようにサービスやお金を与えることで人は幸せになるのではない。いくら自負があったとしても他者に認められることもまた、人間にとって大事な意味を持つ。

提唱者の井手氏自身も認めているようにベーシックサービスは本当の答えになっていない。効果はあるものの、限定された分野で限定された効果を発揮するものだと筆者は考える。それでも尚、ベーシックサービスは有効な手段であるだろう。

なぜにここまで井手氏は熱く語るのかについてもう一点。それは税を通して、人間の尊厳について語っているからだろう。不安におびえながら生きていくこと、孤立して寂しい思いを抱えながら生きることは人間らしい生活とはいえない。自らの原体験と研究の理由そのものがそこには結びついている。

その問いを投げかけ、解を必死で探し、実現を目指している。心の冷めた人間がどうして他人を巻き込むことができようか。だから熱い。

(太田美行)

井手 英策(いで・えいさく)
井手 英策
  • 慶應義塾大学経済学部 教授
1972年福岡県生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。日本銀行金融研究所に勤務。その後、東北学院大学、横浜国立大学などを経て、現職。専門は財政社会学、産業社会学。総務省、全国知事会、全国市長会、日本医師会、連合総研等の各種委員のほか、小田原市生活保護行政のあり方検討会座長、朝日新聞論壇委員、毎日新聞時論フォーラム委員なども歴任。
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