KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2025年10月14日

詩森 ろば氏講演「社会を批判するのではなく、社会をつくる物語を」

詩森 ろば
脚本家・演出家
講演日:2025年10月9日(木)

安斎 勇樹

考えることの行き先は

かつて「2番じゃ駄目ですか?」という言葉が話題となった、あの事業仕分けにおける困難の一つには「考えない人に考えることの重要性を説く」というほぼ不可能に近い点があったのではないかと私は思っている。そういった場合、学者や研究者などの「考える人」は最後の対抗手段として「有用性」を根拠として挙げることとなる。あの時私は学校教育で「考えること」を教えてこなかった長年のツケが回って来たのではないかと思ったものだ。

社会派脚本家といわれる詩森ろば氏は、確かに金融、経済と芸術の相克、性的合意を巡る夫婦間の問題、福祉車両の開発、LGBTQ、入管などの様々な社会問題をテーマに作品を書いている。原点は水俣病を扱った石牟礼道子氏のノンフィクション『苦海浄土』を高校時代に読んだことにあるそうだ。若い詩森さんの感性に作品が与えた影響がどのようなものであったのか。何となくわかるような気がする。次第に社会問題への関心が育まれていったのだろう。

講演では自己紹介、作品の特徴、テーマの見つけ方、作品を通じて学んだこと、これから書いていきたいことの5点を軸として進められた。作品の特徴は上述の通りで、テーマの見つけ方については言語化そして公式化されていること(1.イメージの逆転 2.誰しもが知っている出来事に新しい視座 3.ミクロとマクロ)に私は驚きを覚えた。私の中で脚本家とは感性的な職種のイメージがどこかにあるらしい。でもよくよく考えてみれば言葉を商売にしている人であるからこそ言語化されているのも至極当然なことであるのかもしれない。

  1. 「イメージの逆転」では、金融の役割の見直しと再発見を。(作品『hedge/insider』)
  2. 「誰しもが知っている出来事に新しい視座」については、最大の悲劇を少しでも未来の時間に繋ぐ視点を。(作品『葬送の教室』)
  3. 「ミクロとマクロ」では、The personal is political.(個人が抱える生きづらさは、実は社会的な問題つまり政治が解決すべき問題である。) 教育の問題と理想を扱う。(作品『御上先生』)

特に3.の「ミクロを考えることでマクロに繋がるものを書いていきたい」と語った詩森さんの姿勢には共感を覚えずにはいられない。身近な出来事こそマクロの、政治に繋がるものだから。教育行政はわかりやすい例のひとつで、他にも外交なども一部の人だけでなく、一市民にだって本当は影響を及ぼしているものだ。外交の結果が謎の行方不明者のその後やガソリンの値段となって反映される。その身近な問題を政治にまで繋げていくのが教育の役割のはずだけれど、どうも学校側もすることが多過ぎて手が回っていないようだ。教師の過労は多々報道もされているし、実際学校へ行ってみても大変だろうなと思うことしきりである。

詩森さんもドラマ『御上先生』を書くにあたり実際の学校教育の最先端に触れたとのこと。アクティブ・ラーニングの手法を行う授業を目にした時の話があった。問題の是非を初めから教師が説くのではなくて生徒に考えさせる手法である。「裸の写真を恋人に送ってもいいか」の議論を生徒にさせる。ただしそこは教育なので(議論の流れによっては)教師の側が「『送ってもいい』の方向にもっていかない」ような問いを随所でしていく。誘導というか方向性の匂いを感じさせないようにするのもこれまた教育で、匙加減も必要だろう。大事なのはたとえ結論が同じでも子供たち自身に考えさせることで力のあるものになっていく。それがこの手法の目的だ。さらにいえば議論を通して胸の内にあるモヤモヤを子供たちが言語化できるようにすることはとても大切だ。生きている中で遭遇する様々なことと向き合う時に、人は言語化していくことが求められる。その時に考えられるだけの頭脳と言葉がなければいけない。

この教育は難しく時間もかかる。教師の力量や時間、他にも課題が多そうだ。教師からも「今の学校に自由がないことで責任が生まれないことが問題だ」との指摘があると詩森さんは言う。
そうではあるにしても、詩森さんが取材をして脚本を考え書くことで作品が力のあるものになっている、そのように思える。詩森さんが社会を描くために大切にしている「決めつけない、考える、責任をとる」とのプロセスは正にアクティブ・ラーニングで実施される、子供たちが辿るのと同じプロセスを経ている。そのようにして生まれたドラマや作品を私たちは観ている。社会で起きている事象をどう読み解いて自分のものにしていくかのプロセスが、そして社会にどう還元していくかの、正にそのプロセスが講演を通じて紹介されていた。

「自分は書いていなかったら、考えなかったと思う。作品を作ることがなかったらサボっていたと思う」という。人間は何か問題[問い]にぶつかった時に初めて考えるものらしい。順調にいっている時など人間はまあ考えないものだ。私たちは皆多かれ少なかれ問題に日々ぶつかっている。作品はそうした時のロールモデルの一つになるのではないか。
「人がより良く生きるのはどうしたらいいかを考える」「明日何か行動を起こしたくなるような物語」「ちょっと隣にいる人を大事にしたくなるような物語を書きたい」と詩森さんがいう言葉にはその可能性が如実に表れている。

「考える人」は知っている。好奇心と粘り強さが新しい扉を開けることを。今の教育現場で行われている「考える教育」が数十年後に何を生むのか楽しみだ。詩森さんは『御上先生』の放映後、学校教育の現場からよばれるようになり、新聞部の生徒からも取材を受けて「学校教育はどうあるべきか」と問われたそうだ。成果は既に生まれつつある。だから日本の教育に絶望するのはまだ早い。

(太田美行)


慶應MCCでは、2025年11月6日(木)よりagora講座「脚本家 詩森ろばさんと【考える力】について考える」(全6回)を開講します。
映画『新聞記者』では日本アカデミー賞優秀脚本賞の受賞歴も持つ詩森さんの取材、構成、発想のプロセスを追体験しながら、答えの出ない問いにどう向き合うかを皆で考え探索します。
―『御上先生』誕生の舞台裏や脚本家の目線・技術を知りたい方
―詩森ろばさんと社会問題について自分事化して考えてみたい方
どうぞご参加ください。
『御上先生』にご関心をお持ちの同僚やお知り合いの方がいらっしゃいましたらぜひご紹介ください。

詩森 ろば(しもり・ろば)

詩森 ろば
  • 脚本家・演出家

岩手県盛岡市出身。1993年、劇団風琴工房旗揚げ。以後ほとんどの脚本とすべての演出を担当。2018年よりserial numberとして活動している。全国どこへでも飛び回る綿密な取材で、多彩な題材を他にない視点で立ち上げる。外部作品提供も多数。
2016年『残花』『insider』により紀伊國屋演劇賞個人賞、2020年 映画『新聞記者』により日本アカデミー賞優秀脚本賞、2021年『All My Sons』(作 アーサー・ミラー)『コタン虐殺』により読売演劇大賞優秀演出家賞、ほか受賞多数。2025年ドラマ日曜劇場『御上先生』脚本全話担当。

agora講座:「脚本家 詩森ろばさんと【考える力】について考える
serial number WEBサイト:https://serialnumber.jp/roba.html
X(旧Twitter):@shimorix

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