KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2006年09月12日

武田 美保 「道を究めるということ」

武田美保 シンクロスイマー >>講師紹介
講演日時:2006年6月2日(金) PM6:30-PM8:30

今晩の夕学五十講は、アトランタ、シドニー、アテネオリンピックの3つのオリンピックで5つのメダルを獲得されたシンクロスイマー、武田美保氏のご登場。シンクロの演技やテレビで感じた大柄で派手なイメージとは異なり、間近で拝見した武田さんは清楚で控えめな感じが印象的でした。


武田さんとシンクロの出会いは、スイミングスクールに通ったことが始まりです。武田さんは5歳からそのスイミングスクールに通っていたのですが、小学2年生の時にシンクロのコーチに「シンクロをやりませんか」と声をかけられます。
当時はまだ、シンクロはそれほど注目されていなかった時代です。武田さんも、シンクロがどういうスポーツなのかまるで見当もつきませんでした。しかし、初めて見学に行った時、深いプールの中で立ち泳ぎをしているお姉さんたちが、水中で逆さまになってまっすぐの姿勢を保ったり回転をかけたりする技のすごさと、女性らしい演技の美しさに魅せられ、「シンクロをやる」と即決したのだそうです。
以来、武田さんは、練習を重ねる毎にどんどんシンクロが好きになっていきます。そして、挫折をほとんど経験することもなく、順調に実績を残していきました。小学校の卒業文集では、「シンクロと私」というタイトルで、「オリンピックに出場してメダルを取る」と公言していたのですが、武田さんはこの目標になんら疑問も迷いもいだかず、当然達成できるものと思い込んでいたそうです。
そして、「家族の支え」ももちろんありました。両親とも、シンクロに打ち込む武田さんを熱心にバックアップされたそうです。中でも、毎日、武田さんが練習から帰って来ると、「今日はどうだった?」と質問してくれたという興味深いエピソードがありました。
両親からの「練習ではどんなことで褒められたの?」「どんなことで怒られたの、何ができなくて怒られたの?」といった質問に答えるうち、武田さんは、その日やった練習を頭の中で映像化して再現しつつ、きちんと人に説明できるようになっていきました。これは自分の練習を客観的に振り返る機会となり、さらに、明日の練習ではどんなことをやってみるかということまで親と約束させられました。こうして武田さんは、漠然と練習を行うのではなく、「どうやったらもっとうまくできるようになるか」という明確な目的意識を持って、練習に取り組むことができたのです。
ご両親の質問のやり方は、最近注目されている「コーチング」そのものです。このような、本人の自主性を引き出し、自ら考える姿勢を育むという恵まれた家庭環境が、武田さんのオリンピックでのメダル獲得を支えたことは間違いないでしょう。
武田さんは、自身の素質と環境を活かし、シンクロ競技自体については順調ではあったものの、中学生の頃は、周囲との人間関係に苦しんだそうです。
でも、この時も母親の言葉が武田さんを救います。「ますます頭(こうべ)を垂れること」も必要だけれど、手っ取り早い方法は、「もっとうまくなること」だと言われたのです。自分の近く(あまり差のないレベル)でうろうろしているから目障りに思われる、“突き抜けた”存在になればもはや妬まれたりはしない。こういわれて武田さんも肩の力が抜け、さらに練習に打ち込むようになり、そのうち自然と人間関係も好転していきました。
また、武田さんは中学生の時に、シンクロの日本代表監督を務める井村雅代コーチに出会います。以来、井村コーチに師事されてきたのですが、井村コーチは武田さんにとって本当に恐い存在だったようです。武田さんの演技への初めての井村コーチの評価は、「まとまりすぎている」「完成形のミニチュア」「お座敷ソロ」と散々なものでした。武田さんは、体が小さい点をカバーしようと、技術を磨くことばかりに力を入れすぎていたことに気づきます。そして、武田さんは、井村コーチから「心」を磨くことを教わります。井村コーチの考える「一流選手」とは、単に競技が強いだけではなく、人の気持ちが理解でき、振る舞いがよく、人が思わず応援したくなるような「品格」を備えている人物だからです。
そして、武田さんにとって初めての挑戦となった95年のアトランタオリンピック。その代表選手の選考会でのエピソードも感動的でした。選考会にはシードはなく、候補者14名全員が同じ演技を7人の審査員の前で行い、上位10人が代表に選ばれるという仕組みです。実は、武田さんは「柔軟性」が他の選手と比較すると、あまり高くありませんでした。審査員からも体の固さを指摘され、当時19歳でしたが、初めて人生を甘くみていたことに気づいたそうです。「ひょっとしたらオリンピック選手になれないかもしれない」そう考えて練習が手に付かなくなったそうです。
そこで、井村コーチにアドバイスを求めることにしました。それまでは、自分からコーチに質問しに行くことは一度も無かったのですが、意を決してコーチの部屋に行くと暖かく迎えてくれ、こんなアドバイスをもらったそうです。
「あなたの柔軟性は、確かに候補者14名の14番目でしょう。でもあなたは何が良くてここまで来れたの?」
そういわれて、武田さんは自分の強みが、まっすぐな倒立姿勢を保てる「安定感」であることを再認識します。安定性の高さは、柔軟性の低さの裏返しです。武田さんは、柔軟性ではなく、安定性を最大限発揮できれば、上位10人に入ることは可能だということに気づきました。そこで、「倒立」で一位になることを決意し、そのための練習に集中したそうです。結果、選考会は5位となり、見事代表選手に選ばれます。
それからの活躍は今さらご紹介するまでもないことでしょう。
97年からペアを組んだ立花美哉選手とは、身長も5センチ違いますし、体の線や動きも異なるタイプのため、はじめは立花さんと演技を合わせることに大変苦心されたそうです。しかし、小さい頃から両親との対話を通じて培った「どうやったらもっとうまくなるか」と常に考えながら工夫する練習を通じて、ペアとしてもメダルを獲得されました。
オリンピック選考会、本番に向けた練習、さらにはペアという新境地への挑戦と、過酷とも言えるほどの課題を克服し、数々のメダルを獲得するに至った原動力は、「シンクロが大好きだから」。逆に言えば、物事を長く続ける秘訣は、「そのことを心底楽しめること」に尽きると考えているそうです。確かに、 21年間の選手生活のお話にも、道を究めた方ならではのシンクロに対する深い思いがたっぷりと込められていました。

推薦サイト
http://www.mihotakeda.net/index.html 武田美保 オフィシャルサイト

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