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夕学レポート

2009年02月10日

磯田 道史「『武士の家計簿』から読む幕末・維新の生き方」

磯田 道史
茨城大学人文学部 准教授
講演日時:2008年12月15日(月)

絶対につぶれないと思われていた大企業が次々と倒産し、大リストラで路頭に迷う人が増え、勝ち組・負け組と形容されるような「格差」が生じつつある現代社会ですが、数百年にわたる日本近世史を研究している磯田氏にすれば、明治維新前後の社会体制の崩壊は、今の混乱よりもはるかに大きなものだったと言えるそうです。
江戸時代まで支配階級として一定の身分と収入を保障されていた武士たち、すなわち「士族」のうち、明治の新政府に公務員として雇用されたのは全体のわずかな部分にすぎません。残りの士族は、いわばリストラされたも同然で、彼らは新たに仕事をみつけて生計を立てるしかない状況に追い込まれたのです。

磯田氏は、まず、江戸時代の武士階級の実態について話を展開されました。
磯田氏は、ひとくちに「武士」といってもその実態は「バライアティ」、すなわち「多様性」に富んだものであったという点を指摘します。

岡山藩池田氏の場合、武士の階級制度は「家老」から「足軽」まで8つの階級に分かれていました。そのうち、会社で言えば平社員に該当するのが「平士」(ひらし・ひらざむらい)です。さらにその下に「徒士」(かち)と呼ばれる下級武士がいました。そして、世襲によってその地位を引き継ぐことができた士族は「徒士」以上であり、末端の「足軽」は、農民、町民がアルバイト的に就いていた身分にすぎなかったのです。

詳細な家計簿を残していた加賀藩のそろばん係(正確には、御算用係、いわゆる経理・会計担当者)であった猪山家は「徒士」に属していました。猪山家がそろばん係であったことでわかるように、「徒士」は城内において実務を担当する役割を持っていました。徒士という身分は、なんらかの専門能力が求められましたので、専門能力があれば、農民や町民出身でも徒士として登用されることがあったそうです。また、算術は武士にとっては卑しいものという見方をされており、上級の武士は学ぶことはありませんでしたが、下級武士である徒士の子供たちは、読み書きに加えて、算術もしっかり学ばされたのだそうです。

一方、平士以上の武士たちは、いったん戦(いくさ)が起これば本来の戦闘能力を発揮することができますが、平時にはやることがありません。というのも、日常業務は徒士クラスの人たちがこなしていたからです。「役人」といって、家老や勘定方などの藩の役職についている武士は日々城や役所に上がって働き、忙しいのですが、無役の平士以上の武士たちが城に出る、つまり働きに行くのは月に何度かです。いうなれば、週休6日に近い状況でした。そして、残りの暇な時間は、道場で武芸の鍛錬にもいそしむのですが、むしろ、俳句を読んだり、釣りをしたりと、のんびりとした毎日を送っていたそうです。

江戸時代は、士農工商の身分制社会といわれます。しかし、磯田氏は、武士を頂点にして、その下に農民、次に商人がいるような構造のピラミッド社会ではない、といいます。武士身分・農民身分・町民身分などが、それぞれが、武士身分なら武士の階層ピラミッド、農民身分なら農民の階層ピラミッドがあって、むしろ身分の内部に、きびしい階層制をもっていました。ですから、どの身分に生まれるか、よりも、身分のなかの階層のどの位置に生まれるかが、その人の暮らしを決めました。武士身分であれば家老の家に生まれるか、それとも足軽の家に生まれるか、これが重要でした。農民身分であれば地主・庄屋の家に生まれたか、
土地を持たない農民の家に生まれたかで、人生の内容が大きく違っていたのです。

上級と下級の武家の暮らしぶりの差は、結婚における妻方と夫方の禄高の間の相関関係図や、家格による初婚年齢、出生届数の違いからもわかります。十分な俸禄をもらっている武家では、多くが20代前半で結婚しているのに対し、俸禄の少ない下級武士の結婚年齢は30歳を過ぎてから。それは、家族の誰かが亡くなるなどして食費の点で余裕ができた時でした。つまり、それだけ下級武士の家計には余裕がなく、土地から切り離された武士の生活は悲惨であったということです。

実際、下級武士よりも、土地を所有する地主・庄屋や、才覚次第で金を儲けることのできる商人のほうがよほど裕福な暮らしをしていました。しかし、農民、町民にとって武士はやはりあこがれの存在でした。武士のように袴をはき、刀を腰にさすことを夢みたのです。多くの武士の生活は楽なものではありませんでしたが、農民、町民に敬われることで支配階級としての武士の誇りを持てました。このように、身分も収入もあらゆる点で圧倒的に有利な身分がいなかったことが、士農工商の身分間の対立を減らして社会の安定をもたらし、結果として江戸時代が長く続くことになった一因ではないかと磯田氏は考えているそうです。

さて、磯田氏は、猪山家の数十年にわたる詳細な家計簿を研究することによって、江戸時代末期の武士の暮らしについて生々しい実態を知ることができました。前述したように、武家の生活は決して楽ではなく、加賀百万石の大藩のそろばん係として有能さを発揮し、そこそこの俸禄をもらってはいても猪山家も例外ではありませんでした。
猪山家の家計で目に付くのは支出の大きさです。中でも磯田氏が「身分費用」と呼ぶ支出が家計を圧迫する要因でした。身分費用というのは、武士としての身分、言い換えると「格式」や「面目」を維持するために必要な費用のことです。基本的に武士は、1人で外出することは許されません。荷物を持ったり、槍を持つ家来を従えていなければ城にも入れないのです。こうした住み込みで働く家来や使用人の人件費や食費が重かったのです。

また交際費も莫大でした。武家は親族間のつきあいが頻繁で、何かとお互いに訪問しあったのです。訪問された側は客人をそれなりにもてなさなければなりません。また、客の付き人にはいくらかのお小遣いを渡すことも慣例になっていました。磯田氏によれば、雇い主からもらう給料に加えて、他家に訪問するたびにお小遣いをもらえる家来や使用人のほうが、手元にたくさん現金を持っている場合もあったそうです。

幕末は、各藩とも財政がますます厳しくなり武士たちの俸禄も実質的に減らされました。このため、多くの武家が莫大な借金を抱えていたそうです。しかも、武士が借りる際の金利は15%以上。農民向けの金利は10%でしたから、5%も「武士プレミアム」が上乗せされていたのです。これは、年貢米を受け取るだけで、実質土地を持たない武士の場合、担保が設定できなかったからです。したがって、収入が減らされる中、重い金利負担も重なり、借金から逃れられない暮らしを送っていたのが幕末の武士の姿でした。

ただ、猪山家の場合、自分の家の帳簿をつけていただけでなく、教育熱心であったことが資料からもみられ、新政府に高い実務能力が認められ、重用されて大きな出世を果たしました。今の価値感覚でいえば、4000万円を超えるような年収を得るようになり、幕末の混乱期を乗り切ることができた士族だったというわけです。もちろん、没落していった元士族がはるかに多かったのですが。

今回の磯田氏のお話を通じて、一見華やかで立派な暮らしをしているように見えた武士たちの内情を知ることができ、とても勉強になりました。

主要著書
武士の家計簿』新潮社(新潮新書)、2003年 <第2回新潮ドキュメント賞受賞>
近世大名家臣団の社会構造』東京大学出版会、2003年
殿様の通信簿』朝日新聞出版、2006年(2008年・新潮文庫)
江戸の備忘録』朝日新聞出版、2008年

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