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2026年07月14日

篠田 謙一『人類の起源 – 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』

篠田 謙一
自然人類学者、国立科学博物館前館長

 スペイン語のBonanzaという単語は、「豊富な鉱脈」や「繁栄」を意味する言葉です。英語では「思いがけない幸運」、「大当たり」という意味も持っています。一見なじみのないこの言葉ですが、ここ数年、古代DNA研究所の活況を表す言葉として盛んに使われるようになっていることをご存じでしょうか。

 その背景には、次世代シークエンサの実用化が大いに関係しています。次世代シークエンサの技術を使うと、サンプルに含まれるすべてのDNAを高速で解読することができるのです。今世紀の初めごろまで、技術的な制約から古人骨はミトコンドリアDNA(細胞内に数多く存在します)しか分析できませんでした。しかし2006年に次世代シークエンサが実用化すると、大量の情報を持つ核のDNAの解析が可能になります。

 その後、2010年にネアンデルタール人の持つすべてのDNAの解読に初めて成功するなど、古代DNA解析にもとづいた人類集団の成り立ちに関する研究が非常に活発になり、現在では世界各地の一流科学誌に毎週のように論文が掲載されています。古代DNA研究はまさに「ボナンザ」の時代を迎えているのです。

 それを象徴する出来事が、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所教授で、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の客員教授でもあるスバンテ・ペーボ博士の2022年ノーベル生理学・医学賞の受賞です。彼は、骨人骨に残るわずかなDNAの抽出と解析の技術を確立するなど、ネアンデルタール人と私たちの系統関係を解明する上で決定的な役割を果たした人物なのです。ノーベル生理学・医学賞は、医学の応用の分野で画期的な業績を挙げた人物の与えられる例が多く、進化人類学のような基礎的な研究への受賞は大変珍しいといえるでしょう。ペーボ博士の研究がノーベル生理学・医学賞の対象となったことは、古代DNA研究が重要な学問分野として国際的に認められたということを示しています。

 ここでいう「古代」とはancientの和訳程度の意味で、扱うのは数十万~数百年前と広い年代を生きた人びとです。ダイジェストすると、これまで約20万年前にアフリカで生まれたとされてきた私たち現生人類(ホモ・0サピエンス)ですが、もっとも近縁な人類であるネアンデルタール人のDNAを解析した結果、彼らの祖先と分かれたのは実は60万年ほど前だということが明らかになっています。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとのDNAの比較によって、両社が分岐のあとにも交雑を繰り返していたことも判明しました。それだけでなく、他の絶滅人類と交雑していたこともわかっています。ホモ・サピエンスの進化の道のりは、従来想像されていたよりもはるかに複雑なものだったのです。

 進化を遂げた私たちの祖先は、アフリカを旅立ったあと世界各地にどのように広がり、定着していったのでしょうか。古代の人びとがどのように移動し、文化の形成に関わっていったのかについてはこれまで知る術がなく、ほとんど顧みられることはありませんでした。しかし、現代人のDNAデータの解析、そして古人骨に残るDNAとの比較研究によって、その実態がすこしずつ判明しつつあります。その旅程は、中東からヨーロッパや南アジアに向かい、東南アジアやオセアニアに広がり、次いで東アジア、南北アメリカ大陸にまでおよぶ壮大なものでした。詳しくは『人類の起源』で説明しています。古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは、これまでの常識を覆すような集団の大きな遺伝的変化があったことが明らかになっています。

 さらに、私たちが「民族」という言葉で括っている世界各地の集団が、DNAから見ると、まったく性質の違う集団の集まりだというケースもあることもわかってきました。世界各地に展開している人類集団は、ある地域における「これまでのヒトの移動の総和」といえます。そのため、特定の遺伝子分布の地域差は集団の成立を解明する有力な手がかりになるのです。

 古代DNA研究のさらなる発展は、分子生物学の技術革新に牽引されて進んでいきました。とりわけ21世紀になって、ヒトDNAを解明するためのさまざまな方法が開発され、世界各地の人類集団のDNAの解析が進みました。DNAは私たちの体を型作る設計図であり、体内で行われているさまざまな化学反応を制御している遺伝子を記述する、いわば「文字」のようなものです。その研究が進むことで、たとえば病気や薬剤に対する抵抗性の違いが、DNAの違いに起因することも明らかになりました。古代DNA研究は、集団成立のシナリオを明らかにするだけではなく、環境や病とヒトとの関係を解き明かすポテンシャルも持っています。

 19世紀以降、生命科学の研究は、それまで宗教や人文社会科学の領域だと考えられていた分野に進出するようになりました。ダーウィンの進化論によって「神」の存在を前提とせずに生物の多様性を説明できるようになり、脳科学の進歩によって心の理解にも大きな進展がありました。そうして生命科学は、ヒトに関わる既存の学問、特に人文科学の分野に大きな影響を与えてきました。一般にはまだそれほど認識はされていないかもしれませんが、近年の古代DNA研究は、同じくらい大きなインパクトを考古学や歴史学、言語学の分野に与えており、さらには「人間とは何か」という巨大な問いにも新たな答えをもたらそうとしているのです。

 いうまでもなく、そのほとんどは現在進行形で研究が進んでいるものです。研究のさらなる進展にしたがって、異なる結論が導き出されることがあるかもしれません。それでも、現時点で何が明らかになっており、古代DNA研究が何を目指しているのかを学ぶことで、この研究の行き着く先を見通すことができるはずです。そうした思いもあって論文を読むたびに書き溜めていたメモを、地域別に再構成したのが『人類の起源』でした。累計13万部となり多くの方にご関心をお寄せいただきとても嬉しく思うと同時に、研究を続けながら最新の成果をご紹介していくことの意義も感じました。めざましい発見が相次ぐこの分野で、研究を続けながら、皆さんとご一緒に「われわれとは何者なのか」という問いに向き合い続けていきたいと思います。


人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中公新書2022年2月)の著者と出版社の許可を得て、「はじめに」より抜粋・編集・追記しました。無断転載を禁じます。


篠田謙一先生の登壇プログラム

agora講座:
「人類学者 篠田謙一さんと読み解く【DNAが語る私たちの起源】」
10月14日(水)開講・18:30-21:30ほか 全6回
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篠田謙一

篠田 謙一(しのだ・けんいち)

自然人類学者、国立科学博物館前館長

1955年静岡県生まれ。京都大学理学部卒業。博士(医学)。
産業医科大学助手、佐賀医科大学(現・佐賀大学医学部)助教授を経て、2003年より国立科学博物館人類研究部勤務。2021年から2025年まで同館の館長を務める。現在、名誉研究員。専門は分子人類学。
著書に『人類の起源』、『江戸の骨は語る』、『DNAで語る日本人起源論』、『新版 日本人になった祖先たち』など。

担当プログラム
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」

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