ピックアップレポート
2026年06月09日
黒岩 健一郎『乱気流時代を制するマーケティング 』
かつてのマーケティング優良企業
「マーケティングの上手な企業は?」と問われたら、どんな企業が挙がってくるだろうか。P&G、サントリー、味の素、花王、そんな企業名を思い浮かべるのではないだろうか。
公益社団法人日本マーケティング協会は、毎年、「日本マーケティング大賞」という表彰制度を実施しているが、過去の受賞企業には、こうした企業が並んでいる。 例えば、 2018年はサントリー食品の『クラフトボス』が大賞を受賞しており、受賞理由には、「新しい働き方のニーズを捉えて、既存顧客、新規顧客両面からの支持を得た秀逸なマーケティング戦略」と記されている。顧客ニーズを的確に捉えて、それを製品やマーケティング戦略に反映していることが評価されているのである。
マーケティングの優秀性は、マーケティング大賞の受賞理由が示すように、顧客ニーズを的確に把握し、それを必要な部署で共有し、製品やサービス開発といった活動に反映している点で評価されてきた。この基準は、「マーケティングとは、顧客・依頼人・パートナー・社会全体にとって価値のある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動であり 一連の制度、そしてプロセス」というマーケティングの定義にも沿っており、妥当な基準である。
しかし、昨今は、市場環境の変化が激しくなり、複雑性が増している。前述の優秀性の基準は、そうした市場環境のもとでも有効なのだろうか。
マーケティング理論の有効性
ここ数年、ビジネススクールでマーケティングの基礎科目を教えていて、不安を覚える瞬間が増えてきた。「こんなことを教えても、受講者の役に立つだろうか?」そう思う瞬間である。
もちろん、マーケティングの基礎的な考え方は重要で、実際にビジネスで役に立つ。消費者行動の理論は、消費者を理解することを容易にしてくれるし、4Pなどのフレームワークは戦略策定の際に、施策を整理しやすい。こうした知識は、ビジネスの世界の共通言語であり、他のビジネスパーソンとのコミュニケーション上も必要である。ビジネスパーソンにとって、体系化された知識は不可欠である。
しかし、そうした知識の有効性が低下している部分があることも事実である。例えば、市場調査がテーマの授業で、定性調査と定量調査の長所・短所を議論していると、「先生、消費者調査を念入りにやるより、プロトタイプを消費者に使ってもらった方が、ニーズを早く理解できるんじゃないでしょうか?」という発言をする受講者がいる。その通りである。その場では、「ソフトウェアやゲームなどは、ベータ版を使ってもらう方法があるけど、生産に大きな投資が必要な場合は、事前の調査が必要だよね」などと受け答えをして、授業が無意味でないことを言い訳するのだが、本音では「君の言う通り!」と思っている自分がいる。
また、ある討議形式(ケースメソッド)の授業では、A案とB案が提示されていて、それらの長所と短所を分析していくのだが、授業後に受講者が「どんなに分析しても、結果はやってみないとわからないよな」とつぶやくのを聞くこともある。その受講者は、分析が無意味と言っているわけではないし、きちんと予習もしてきていて、的確な発言もしている。しかし、現実には、事前に予測した通りには物事は進まないと思っているのだろう。これも返す言葉がない。
変化の激しさが常態化した時代
「変化の激しい時代になった」と言われて久しい。今も信奉者が多い経営学者のピーター・ドラッカーは、著書『乱気流時代の経営 (Managing in Turbulent Times)』 の中で、企業経営を飛行機の操縦に例えて、今後の企業経営は不安定な環境の中での意思決定が求められるとし、継続性を前提とした計画の時代は終わったと述べている。実に、約半世紀も前の1980年のことである。
今は「乱気流」という言葉は使われず、「VUCA」という言葉に置き換わっているが、言っていることは変わらない。世の中は、変動が激しくなり(Volatility)、不確実性が増し(Uncertainty)、複雑になり(Complexity)、 何事も曖昧に (Ambiguity) なっているという。とくに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延で、我々はそのことを痛切に思い知らされた。感染者が減少してきたと思った数日後には急激な増加傾向に転じたり、予定を立てようにも先行きが読めなかったり、緊急事態宣言下でも解除下でも対応可能なように複数の選択肢を用意したり、多種多様な変異株が発生して何が有効な感染防止策なのかがよくわからなくなったりと、右往左往させられた。
気流を乱すのは病気だけではない。人工知能やバーチャル・リアリティといった科学技術、米中の衝突やロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとハマスの戦闘といった政治、温暖化による災害といった自然や気象、そうしたさまざまな要因が変化して、今日は昨日とは異なり、今日とは違う明日を迎える。 「変化の激しい時代」、いや正確には、「変化の激しさが常態化した時代」に我々は生きているのである。
企業の対応
そうした時代に企業はどのように対応してきたのだろうか。ドラッカーの指摘から約半世紀の月日が流れているにも関わらず、企業の多くは相変わらず、中期経営計画を策定し、数値を重視した意思決定をし、効率化にまい進している。ビジネススクールでも、基礎科目では、プロダクト・ポートフォリオ・マネジメントといった分析手法を数多く教えており、経営環境の分析と事業計画を上手にできる人材を生み続けている。
企業活動の中でもマーケティングは、とくに企業と外部の接点に位置する活動であるため、外部の変化へ敏感に反応しなければならない。しかし、新製品開発のプロセスでは、定量調査の結果によるゲート管理がなされており、安定気流を前提とした活動が中心となったままである。
乱気流時代を制するマーケティング
本書では、こうした変化の激しさが常態化した時代におけるマーケティングのあり方を考えていく。
具体的にはこれまでのマーケティング・エクセレンス、すなわちマーケティングの優秀性について振り返ったうえで、現代のマーケティング・エクセレンスとして、(1)エンドユーザー志向、(2)マーケティング・アジリティ、(3)エコシステムの三つの要素について、要素の説明と、その要素に関して優れた取り組みを行っている企業を2社ずつ取り上げる。加えて最後に、新しいマーケティング・エクセレンスを実践する起点として、手法や組織設計だけでなく、背景にある思想や考え方の違いを認識することも重要であるとの考えから、マインドセットのシフトについても整理し、そのための変革のステップまで提示する。
6社の実践から見えてくるのは、マーケティングがもはや一部門の専門の活動ではなく、全社を巻き込んだ価値創造の中核であるということである。 市場が不確実性を増し、顧客の期待が多様化する中で、私たちは単に顧客のニーズを満たすのではなく、「顧客とともに意味を創り出す営み」へと役割を進化させる必要がある。
ワークマンのように現場の声を商品に反映し、ハルメクのように顧客と深くつながり、ユニ・チャームのように俊敏に仮説検証を重ねる。こうした実践は、特別な企業だからできるのではなく、どの企業でも実践可能である。ただ、そのかたちは、それぞれの企業によって異なるかもしれない。
今日からできる小さな実験を重ね、部門を越えて顧客の声を共有し、学びを組織の力に変えていく。それが、新しいマーケティング・エクセレンスへの第一歩である。皆様の挑戦が、次の変革の事例となることを願う。
『乱気流時代を制するマーケティング』(同友館2026年3月)を著者と出版社の許可を得て、序章および終章より抜粋・編集・追記しました。無断転載を禁じます。
黒岩健一郎先生のビジネスプログラム
ビジネスコアプログラム:
「共創の時代をリードするマーケティング戦略」
8月27日(木)開講・18:30-21:30 全6回
https://www.keiomcc.com/program/mks26a/

黒岩健一郎 (くろいわ・けんいちろう)
青山学院大学大学院 国際マネジメント研究科(青山ビジネススクール) 教授
早稲田大学理工学部建築学科を卒業。住友商事株式会社にて不動産事業に従事。慶應義塾大学大学院経営管理研究科修士課程修了(MBA)。同大学院後期博士課程単位取得退学。博士(経営学)。武蔵大学経済学部専任講師、准教授、教授を経て現職。慶應義塾大学ビジネススクール認定ケースメソッド・インストラクター。日本マーケティング学会理事。株式会社トビラボ顧問。
専門はサービス・マーケティング。特に、苦情対応のマネジメント、顧客オーナーシップのマネジメント、サービス・デザイン、市場志向型経営。
担当プログラム
共創の時代をリードするマーケティング戦略
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