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夕学レポート

2019年05月17日

私も考えた 石川善樹さん

石川善樹かつて「2番じゃ駄目ですか?」という言葉が話題となった、あの事業仕分けにおける困難の一つには「考えない人に考えることの重要性を説く」というほぼ不可能に近い点があったのではないかと思う。そういった場合、学者や研究者などの「考える人」は最後の手段として「有用性」を根拠として挙げることとなる。あの時私は学校教育で「考えること」を教えてこなかった長年のツケが回って来たのではないかと思ったものだ。
石川善樹氏も同様の考えらしく、学校教育で「考えるとは何か」が教えられないことを嘆かれていた。私は今回の講演を大変楽しみにしていた。「考える」ことがテーマとして扱われるのだから。また昨年の石川氏の講演も聴いていたので1年後の内容がどのようになっているのか、定点観測のような気持もあった。


なぜ「考える」ことが重要なのか、その理由について興味深い点が説明された。人類の平均寿命は1800年の29歳から2016年には72歳まで伸びており、今後の課題は治療ではなく人生の質を高めることへと変化している。人類は幸せ(Well-being)になったのか、幸せの定義は主観的なものなので、研究者はその視点を「『幸せだ』という人はどういう人か」と問いを変えるなどしてこの難問に挑んだ。日本人の幸せ度は想像通り低かった。1958年を基準として1番高いのが1964年の東京オリンピックの時で、GDPが高くなっても幸福度はそれほど変わらない。「戦争、貧困、病気の三大苦を克服したら幸せになれる」とされていたのに日本人はこれに当てはまらない。そうはいっても問いの設定の仕方が適切か、思想哲学なども含めて分析しないと正しい結果は出ないかもしれない。
人類は豊かになった生活の中で何が変化したのかというと、どうもぼーっとしている時間が増えたらしい。1965年から2005年(スマートフォン普及前)までの調査で時間の使い方の変化を見ると、男女ともぼーっとする(テレビを観る)時間が増えたとなんだか情けない結果が出たが、実は1965年『21世紀への階段 40年後の日本の科学技術』(科学技術庁)の中で既に医療の進歩による「長寿の退屈」として予測されていたそうだ。「新三大苦」は退屈、孤独、不安ではないかと、石川氏は予防医学者として何ができるかを探る。
幸せの測定法は自然科学、社会科学、人文科学の3つに跨るものなので難しく抽象的過ぎる。そこで石川氏は「考える力がすごい人達」はどういう人なのかを具体的に挙げた。そこで紹介されたのが実際に交流のある、濱口秀司(ビジネスデザイナー)、小泉進次郎(政治家)、ラヴ・ヴァーシュニー(Lav Varshney、研究者)の3名だ。この3名に共通するのは同じ情報をベースにしているのにアウトプットが「常人と違い過ぎる」そうだ。なぜ?石川氏はWell-beingを再定義するために「考える方法論」の話を始めた。
「人類の歴史の中で一番Think Differentした人ランキング」が紹介された。この判断基準はウィキペディアで何カ国語に翻訳されたか、閲覧数の多さである。マイナー分野で大きなThink Differentした人や一般的な知名度の低い人が漏れてしまう危険性の大きい調査だと思うが、まあ結果は次の通りだ。
1位 アリストテレス
2位 プラトン
3位 キリスト



22位 ニュートン
23位 アインシュタイン
日本人のランキングでは
1位 松尾芭蕉(101言語に翻訳)
2位 織田信長
3位 昭和天皇
知的生産の難しさはインプットもプロセスも毎回異なり、またそこからのアウトプットもよくわからないものである点で、21世紀の知的生産とは情報(インプット)、考える(プロセス)、アウトプット(価値)によってなされると石川氏は考える。広く、深い情報は高い視座、複数の視座を持ち考えることによって得られる。まずゴールを考え、複数のKPIを持ち産業構造を変える思考を持った人物としてイーロン・マスクと彼の思考法が紹介された。単なる状況の分類ではなく、別の軸で切って空いている空間を見つけられる人、さらには構造を把握して1段階も2段階も異なる発想をするような大局観を持つのが濱口氏や小泉氏だそうだ。
芭蕉の偉大さは美の概念を変えたことだという。「古池や蛙飛び込む水の音」の中に侘びも雅も下品も寂びも、様々な価値を混ぜて斬新な俳句を作った。石川氏はこの芭蕉に学び、守・破・離を考えたがずっと続けるのは辛いと思い、600年続くものを考えた男として世阿弥を紹介した。大和の猿楽からエンターテインメントに能を発展させ、さらには幽玄や却来に至らせた。これは春夏秋冬と同様、一周回るサイクルだ。この世阿弥のようなことがWell-beingでもできないかというのだ。アップデート(新)→アップグレード(質)→ダウンデート(古)する流れである。
 
この辺りから違和感を覚えるのだがイーロン・マスクも世阿弥も確かに素晴らしい。しかし世阿弥も「600年続く芸能を」と考えていた訳でもあるまい。世の流れ、能の発展や進化、自らの心身の変化に合わせていたら偶然600年続くものができただけかもしれない。変化が大前提のこの世界で「600年続くものを」との考えから始めては変化に適応できないのではないか。「アップデート(新)→アップグレード(質)→ダウンデート(古)する流れ」という考え自体が変化を前提にしているのかもしれないが、600年より短いかもしれない。却って変化の可能性を捨てているように思われる。
「600年続くもの」なら、むしろ不変の真理や定理を求める方へ行くべきで、幸せ(Well-being)の再定義のための手段であったはずの「考える」講演がいつの間にか「すごい成果を出す人の考え方」になってしまったように感じた。
「長年すごい成果を出す」ことが幸せといえるのか、人生の質を上げるのか。なにしろGDPは上がっても幸福度が上がらない我々日本人なのである。必ずしも一致するとは思えないのだが。その辺りのことを考えてみてはいかがだろう?
太田美行

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