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夕学レポート

2018年10月25日

穂村 弘氏講演「世界と<私>の関係を言葉にする」

言葉のある世界を私はどう生きるか

穂村弘

田村隆一の『帰途』という詩に「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という一節がある。
「言葉のない世界 意味が意味にならない世界に生きてたら どんなによかったか」とあとに続く。
幸か不幸か私たちは言葉のある世界に生きている。言葉があるから思考し、何かを好きになったり、嫌いになったり、涙のなかに立ち止まったりする。そういう意味では、私たちの行動や思考は言葉に支配されている。
 
「妻、女房、嫁、家内・・・夫、旦那、亭主、パートナー・・・」
自分の妻や夫をどのような名称で呼んでいるかで、私たちはその人を判断すると穂村弘さんは言う。「うちの嫁が」と言った途端、「この人は『妻』でなく『女房』でもなく、『嫁』の人なんだ」と思う。このことはそれまで好きだった人をも、途端に嫌いにさせる。

例えば、私は夫婦が相方のことを「パートナー」と呼ぶ人が苦手だ。昔は妻や夫のことを「パートナー」という習慣は日本にはなく、ここ何年かで耳にするようになってきた。私は夫婦の相方のことを「パートナー」と呼ぶ人が、欧米に染まりやすく、新しもの好きで、意識高い系に見えてしまうのだ。このように、私たちはその人が使う言葉で、その人がどのような人かを判断して、好感を持ったり、嫌いになったりする。私もまた「パートナー」という呼び方が嫌いな人として、「パートナー」という呼び方を好む人に嫌われるのだろう。

他にもちょっとした言葉で、今までは平気だったのに、その人から遠ざかってしまうことがある。例えば、穂村さんの知り合いの若い女性編集者が年上男性と付き合っていたが、急に別れてしまった。その原因は「頑張ってね」の一言が「頑張ってネ」と年上男性からメールで送られてきたからだ。このカタカナの「ネ」は若くない私ですら若干引いてしまうが、普段は気にならなかった年齢差を彼女はこのカタカナ一文字で感じてしまった。だから、彼女はその男性をふってしまった。言葉はその人の所属している世代を見事に反映している。

言葉とは本当に強い。ほんの少しの外国語と日本語をおぼえたおかげで、私たちは感情を揺さぶられたり、思いがけない行動をとったりする。言葉の意味だけでなく、その背景までもが、私たちの好悪に影響してくる。「ネ」を使ったばかりに、ふられたおっさんにとっては、言葉のない世界、意味が意味にならない世界に生きてたらどんなによかったか。それとも「ネ」ぐらいで別れられて良かったのだろうか。

また、言葉は資本主義に最大限に貢献している。
例えば、コカコーラが日本で発売された当初のキャッチコピーは「飲みましょう」であった。あまりにも単純であり、そこには喉が渇いたから飲むという人間の肉体という実体が伴っていたと穂村さんはいう。時間が経ち、そのキャッチコピーは「スカッとさわやかコカコーラ」となった。それは実体ではなく、コカコーラを飲むとそういう気分になるというキャッチコピーだ。そして、1990年代には「ココロが求めてる」となる。身体ではなく、ココロが水分を求めている。

人間が生きるために必要なものは、実体として存在するが、消費してもらうには限界があり、企業はイメージを想起させるようになった。言葉が実体のないものに働きかける力は無限大だ。こういう気分になれるなら買ってもいいかなと意識がする前に、イメージを想起させる言葉が私たちの行動を決める。さらには、「エゴイスト」、「プワゾン」、「ひとりよがり」などは香水やお酒であるが、このような嗜好品にダークで普通ならマイナスイメージの名前をつけると、とても魅力的に感じるから言葉は不思議なのだと穂村さんはいう。

世界というのは固定化されているほうが効率がよい。言葉が世界を固定し、子どもの頃は疑問だったことや不思議だったことが当然となってきて、全く考えなくなる。私たちは一人一人全く違う人間であるはずなのに、同じようなことに感動し、同じようなことに共感し、同じような行動をする。「永遠の愛」や「道徳」、「善悪の判断」など、言葉によって共同幻想が生まれてその中で生きている。なぜなら、そのほうが効率よく生きられるからである。

今回の穂村さんの講演は「世界と〈私〉の関係を言葉にする」という演題であった。
田村隆一は「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と言った。
言葉を覚えると私たちには固定観念が同時に生まれる。「泣いてる人は悲しんでいる」。「これが手に入れば楽しい」。「もっと豊かな生活ができたら幸せになれる」。しかし、それは個人個人の価値観や考えではなく、私たちが生み出した共同幻想である。

私自身短歌が好きで、穂村弘さんの創る短歌のファンでもある。講演では多くの短歌も紹介してくださったが、「世界と私の関係」がどのように言葉で成り立っているかのほうが、私自身「言葉と世界と自分の関係」を考えさせられ、自身を振り返る良い機会であった。言葉は世界を固定化するが、またその固定されたものを壊す力もある。特に、短歌をはじめ、詩や文学は固定化された世界を破壊するものだ。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」とならないような言葉の使い方、共同幻想ではなく自分が思うことや感じることが重要であると穂村さんに教えられた講演であった。

(ほり屋飯盛)

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