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夕学レポート

2008年05月09日

「薩長同盟」成る。 『海舟がみた幕末・明治』(第6回)

1864年(文久4年)夏 第一次長征討伐により、長州の正義派(攘夷派)は、逃散を余儀なくされます。井上聞多は刺客に切られ重傷、高杉晋作は九州へ遁走、桂小五郎、伊藤博文も逃げます。
幕府追従の俗論派が主導権を握り、奇兵隊や力士隊など私兵隊には解散命令が下されました。
長州もここまでかと思われた12月15日夜半、高杉晋作が敢然と立ち、「たったひとりの反乱」を起こします。これに力士隊16人を率いていた伊藤博文が呼応し、遊撃隊も加わって、総勢は60余名。その日のうちに下関代官所を急襲して、独立政府を樹立してしまいました。
事実上の長州革命とも呼べるこの動乱を通して、長州の藩論は、これまでの攘夷第一から、倒幕・開国へと大きく転換し、再び幕府への抵抗姿勢を鮮明にしていきます。
これに対して、幕府は第二次長征軍の編成を決め、再度諸藩に出兵を促そうとしますが、幕府への牽制を意図する薩摩が猛烈に反対、時勢は混沌となります。
この頃、長州と薩摩による勢力争いを、苦々しく眺める立場にあった二人から、時勢を一気に動かす新たな構想が発案されました。
それが「薩長同盟」のはじまりになります。
発案者は、土佐脱藩の中岡慎太郎と、やはり土佐出身で、三条実美の側近として長州に逼塞していた土方久元の二人です。倒幕論者であった二人は、幕府に対抗する勢力の確立を目指していました。


半藤さんの整理によると、両藩(薩摩、長州)には共通する体質があったそうです。
・関が原の戦いでは、ともに西軍で、徳川幕府に怨念を持っていた
・藩財政の建て直しに成功し、富裕な国力があった
・辺境に位置していた
・中央志向を強く内蔵していた
・学問に熱心で、それゆえに人材が豊富であった
反幕府の主導権をめぐって骨肉の争いを繰り広げていた両藩でしたが、一皮むけば似たもの同士でもあり、倒幕という志を同じくする第三者(中岡等)から見れば、大志のための手を握るべき存在に映ったのでしょうか。
1865年(慶應元年)の閏5月、中岡は西郷を口説きに薩摩に出向き、土方は下関で桂を説得しようとします。
土方は、下関で坂本龍馬とも会い、賛同を得ます。以降、薩長への仲介役は、交渉力と対人能力に長けた龍馬が担うことになりました。
龍馬は、三日がかりで桂を説得しましたが、西郷は、下関への途上で「至急上京すべし」という大久保の報を受けて、予定を変更してしまい、桂は態度を硬化させます。
長州には、寺田屋事件、八月十八日の政変、蛤御門の変、第一次長征等々、薩摩に何度も煮え湯を飲まされた経験があります。「またしてもか!」の思いがよぎったとしても不思議ではありません。
「諸君の憤激はわかるが、国の将来のために...」と必死で取りなす龍馬に対して、長州側は、したたかな代替要求を提示します。
艦船・銃砲を薩摩名義で購入して欲しいというものでした。
長州は、討伐対象となって以降、対外貿易を禁止されており、来るべき倒幕に向けて、西洋の近代兵器は喉から手が出るほど欲しいものでした。
この提案を受けて、龍馬と中岡は京へ急行し、大久保や小松常刀と交渉。長州からの兵糧米と引き換えにすることで承諾を取ることに成功します。
この仲介には、龍馬が長崎で結成していた、先駆的な海運商社「亀山社中(のちの海援隊)」が大活躍を見せたそうです。
この時長州が手にいれた銃砲は、後の幕長戦争、戊辰戦争で圧倒的な威力を見せ、倒幕の原動力になりました。
この期に乗じて兵器購入という逆提案に転じた長州のしたたかな実利主義には、明治になって伊藤、山県等長州閥が推進した富国強兵政策の萌芽を見る思いがします。
また、半藤さんは、この時期たまたま高杉が長州を留守にしていたことが幸いだったのではないかと言います。
長州の主導者は、本来は高杉でしたが、激情型で天衣無縫な高杉であったなら、薩摩の駆け引き型の交渉術に対しては、早い段階で「ケツをまくる」ことになっただろうとのこと。交渉当事者が、温厚で明晰な外交官タイプの桂小五郎でなければ、薩長同盟は幻になっていたのかもしれないそうです。
これもまた「歴史の“もしも”」のひとつなのかもしれません。
さて、薩長接近の動きを知ってか、知らずか、幕府の動きは相変わらずゆっくりでした。
龍馬が下関で桂を口説いているまさにその頃、将軍家持が大阪城に移り、長州討伐の前線基地とします。
幕府は、長州征伐の勅許を得ようと働きかけますが、当然ながら薩摩は「大儀がない」と猛反対します。
朝廷はまたも二転三転のうえ、ようやく勅許をだしますが、もはや諸藩は動こうとはしません。
また、同じ頃朝廷では、もうひとつの大問題が議論されていました。
兵庫(神戸)の開港問題です。
京都に近いという理由で、通商条約締結時に、五年先延ばしにした開港期限が迫っていました。連合艦隊は兵庫沖に投錨し、開港に向けて圧力を強めます。
事ここに及んでも、あいも変らぬ朝廷の煮え切らない態度に、一橋慶喜が奮発しました。
このままでは天皇の命さえ保障できないという恫喝をもって、朝廷に迫り、ようやく通商条約の勅許を正式に得ることが出来ました。
一方で薩長の接近は山場を迎えていました。
慶應元年の暮れから翌年の正月にかけて、京に主役が揃いはじめました。
長州の桂、薩摩の西郷、小松、そして龍馬が会します。
しかし西郷と桂は互いの意地と面目にこだわり、本題に入ろうとしません。
ここで龍馬が両者を一喝します。
「武士の意地、藩の名誉などを乗り越えて、天下のために協議をはじめよ。俺はそのために命を張ってきた」
温厚で知られた龍馬の一喝に両者は動かされ、ようやくに歴史的な同盟が結ばれました。
薩長同盟」は、来るべき幕府との戦いに向けた六箇条からなる軍事同盟であり、政略同盟であったわけですが、半藤さんは、最後の六か条目に特に注目し、日本の近代史に吹き荒れた「風」について言及しました。
皇国史観」という風です。
「一、冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠心を尽くして尽力して致すべくとの事なり」
この時期は、上記にみられるように「皇国」という言葉が盛んに登場しはじめた時期でした。ゆえに、後に大きな過ちを生んだ「皇国史観」は、幕末・維新に嚆矢を開くと言われることがありますが、半藤さんは、「それは違うのではないか」と主張します。
この時代に用いられている「皇」という字は、天皇中心国家観に繋がる意味ではなく、日本という国の神威を高める意図で修飾語的に使われているに過ぎない。
幕末・維新の時代にあって、天皇は、争乱を有利に導くための「玉」=道具として尊ばれてはいたけれども、国の基軸になるものではなかった。
というものです。
では、日本に、いつ、なぜ、どのようにして「皇国史観」という風が吹き始めたのか。
それは、『海舟がみた幕末・明治』(全10回)の最後のテーマとして再登場してくると思われます。

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