KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2011年12月15日

歌人が語る歌人の妻 永田和宏さん

photo_instructor_595.jpg「二足の草鞋」、しかも、いずれも、とびっきりの「金草鞋」をはく心境は、一足の草鞋も満足にはけない我々凡人には想像しにくいことである。
古くは、森鴎外(陸軍軍医総監と小説家)、少し前までなら堤清二(経営者と小説家)、今なら石原慎太郎(政治家と小説家)が二足の草鞋の先達であろう。
前三人ほどの派手さをないものの、細胞生物学者と歌人という二つの金草鞋をはいてきた永田先生の40年は、凡人には分からない葛藤を抱えるものだったという。
同僚やライバルからの冷たい視線、自分自身のうしろめたさとの戦いであった。
それでも短歌と科学の両方の道を歩んできたのは、二つの道を歩くことで、一方の道を行く自分を相対化できたからだと、永田先生は言う。
ひとつの道で立ちすくんでいても、もうひとつの道では前に進んでいる。落ち込んではいられない道がもうひとつあり。
それが、永田先生の力になってきた
いまひとつの理由は、昨年夏に亡くなられた妻、河野裕子さんの存在であろう。(ちなみに永田先生は講演中に、妻は、とは言わずに「河野」と呼ぶ。ここでも相対化が出来ている)
永田先生にとって河野裕子さんは、恋人、妻、歌のパートナー、ライバル等々多義的な意味を持つかけがえのない存在であった。
ふたりが終生にわたって交わした相聞歌は、互いに500首近くに及ぶという。
きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり

(永田和宏)

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

(河野裕子)

世の中を見る際の座標軸として、夫(永田さん)に全幅の信頼を寄せつつ、現代短歌の旗手として夫よりも早くに世に出た妻(裕子さん)を、永田さんは慈しみ、歌人として、目標にして生きていた。


10年前に見つかった裕子さんの癌は、二人の関係に大きな揺らぎを与え、それゆえ強い絆を結ぶことにもなった。
何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない

(河野裕子)

一日過ぎれば一日減ってゆく君との時間もうすぐ夏至だ

(永田和宏)

命の終わりを意識化したことと、歌人としての立場が逆転するのではないかというあせりから裕子さんのこころは不安定となり荒れる日々が続いたこともあった。細胞学者として癌の恐ろしさを知る永田先生も、それ以上の不安定状態に陥った。
その不安定さをも歌に詠み合うことで、歌人夫婦の関係は更に深いものになっていたようだ。
今日夫は三度泣きたり死なないでと三度泣き死なないでと言ひて学校へ行けり

(河野裕子)

歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらう いつか来る日のいつかを怖る

(永田和宏)

裕子さんが死に際して願ったのは、妻であり母として死にたいということであったという。
にもかかわらず、死ぬ間際まで歌を作った。
「死ぬまで歌を作るのが歌人だ」という夫の言葉に従おうとしたのかもしれない。裕子さんにとって、永田さんは、最後まで人生の座標軸であり続けた。
裕子さんは、息をするように、最後の最後まで歌をつくった。
それが、自分が自分らしくいられることであり、妻であり母であることであった。
永田さんはいま、そう振り返っている。
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

(河野裕子)

歌人河野裕子の最高傑作として永遠に残るであろう一首をつくり、「これでよし」の一言を残して裕子さんは息を引き取った。
永田さんは、言う
「いま私に出来ることは、「河野」のこと、「河野」の歌を憶えていてあげること、そのために語り続けること、そしてなによりも長く生きることです」
亡き妻を「かわの」と呼びし歌人をり その哀しみにペンは凍れり
最後は駄作である。
41FpOgxL30L__SL500_AA300_.jpg
51BCh6PadFL__BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_.jpg

メルマガ
登録

メルマガ
登録