KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2007年01月22日

議論における“謙虚”と“傲慢”のバランス

慶應MCCで先週からスタートした『会議ファシリテーション』のメーリングリストで、ある参加者からとても興味深い課題提起が行われました。
(以下その課題提起の要約)
■グループ演習後の振り返りセッションで、「全員が謙虚な姿勢で臨んだため、『声の大きい人が勝つ』といった現象がなかったことが良かった」という意見と、「初対面のため、互いに遠慮してしまい、違った視点からの意見や反論が出なかったことが反省点」という正反対の気づきがあった。
■これは“謙虚に臨めば、決めつけや過度の説得はなくなるけれど、度が過ぎて遠慮してしまうと、議論が深まらない”ことが実証されたとも言える。
■では、この“謙虚”と“傲慢”のバランスは、どのように取ればよいのか?
いかがでしょうか。
これに対しては様々なアプローチがあり、唯一の正解があるわけではありません。
ちなみにメーリングリストでも、このテーマでの議論は現在進行形で、いろいろなアイデアが出てきています。
さて、それでは私もこの課題について考えてみましょう。


この“謙虚”と“傲慢”をキーワードに考えてみると、
■謙虚さが無く、各自が傲慢にふるまう場 : 他者の意見を「否定」
■謙虚と傲慢のバランスが取れている場  : 他者の意見を「受容」
■過度の謙虚さのため、各自が遠慮する場 : 他者の意見に「追従」
という状況が生まれていると思います。
そうすると次に考えるべきことは、
(1)どのようにしたら「否定」しないようになるか?
(2)どのようにしたら「追従」しないようになるか?
でしょう。
私の意見としては、この2つの課題、共通のテクニックである程度解決できるように思います。
テクニックというか、常に以下のことを意識することでしょうか。
      ◆◇◆ 常に「Why ?」を問いかける ◆◇◆
(1)については、要は持論が正しいと思いこむことを無くせば良いのですから、これは自分に対して問いかけます。
「なぜ自分はそう考えたのだろう?」
脊髄反射で他者の意見を否定する前に、少しだけ立ち止まってこれを問いかければ、自分の固定観念や思いこみの存在に気づくことも多いはずです。
(2)については、当然意見を述べた相手に対して問いかけるわけです。
「なぜそう思われますか?」
「すいません、具体的根拠を教えていただけますか?」
過度な謙虚さは、まず「疑う」姿勢を消してしまいます。ですが、この「疑う」姿勢は、本質的な議論を行うためには必須です。
そもそも、日本人は「疑う」ことを勘違いしているように思います。
確かに常に『人を疑う』ことは避けるべきでしょう。
ですが、『意見を疑う』ことは、なんら問題ないはずです。
どんな聖人君子であっても、常に正しいことを言っているわけではありませんし、たとえ相手の意見を疑っても、それは相手の人格を疑っているのではないからです。
(同様に「意見の否定」=「人格の否定」ではないですよね)
ところが、残念ながらこの論理がわかってない人が多すぎるのです。
上司に「Why ?」を問うと、「生意気なヤツ」と見られたりしますし、「そんなに責めなくていいじゃないか」と思われたりもするわけです。
確かにこの「Why ?」は、原因分析の疑問符ですから、“犯人捜し”というニュアンスがあるのも事実です。
しかし、それも問いかけ方の工夫で随分違うはずです。
「なんで?」とストレートに訊くから少しトゲがあるのであって、「なるほど。もう少し具体的に理由を説明していただけますか?」と訊いたらどうでしょう。
また、「なんでできてないの?」ではなく、「どうやってたらできてたと思う?」という具合に、“WhyをHowに変換して訊く”というテクニックも有効です。(余談ですが、このテクニックは子供とのコミュニケーションにおいても有効です)
さて、この「Why ?」を“問いかけにくい空気”は、皆さんの周りに充満してませんか?
もしこの空気、というか組織風土があるのなら、それは絶対に変えるべきです。本質的な議論が行われていないことの証明ですから。
そのためには、まずこれを読んでいただいている皆さんが、伝道者や触媒となって、その空気を清浄化していってほしいと思うのです。

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