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ファカルティズ・コラム

2010年03月05日

「真央ちゃん」「遼くん」の意味することとは?

バンクーバー冬期オリンピックが終わりました。
祭の後のような、一抹の寂しさがあります。
さて、今回はそのオリンピックにも少しだけ関係する論点について、久々の「マイ・ブックマーク」カテゴリーで語ってみたいと思います。
ネタの宝庫『日経ビジネスONLINE』で、今私が一番楽しみにしているのが小田嶋隆氏のコラム『ア・ピース・オブ・警句』です。
自称「ひきこもり系コラムニスト」である小田嶋氏が、政治からスポーツ、トレンドまで、その時の旬なテーマを独自の視点で「斜め下から」切って我々に見せてくれます。
軽妙な語り口も含め大変面白く、何度もニヤリとさせられます。
そのコラムで、バンクーバー五輪直前にアップされたのが、『「がんばれニッポン」が控えめにした五輪熱』でした。

このコラムで小田嶋氏は、(いつものように)あちこちに脱線しながら、「報道のスタンスが、世界最高のアスリートの活躍ではなく自国選手偏重に陥っているのはおかしくないか?」など、いくつかの問いかけを行っています。
その中で特に私が面白いと感じたのが、「真央ちゃん」「ミキティ」などの『名前呼び』がスタンダードになっている現状への疑問でした。
ただ、小田嶋氏も認めているように、幼少期からメディアへの露出頻度が高ければ名前呼びが継続されるのは理解できます。
フィギュアの浅田真央選手(真央ちゃん)、卓球の福原愛選手(愛ちゃん)などはその典型でしょう。
しかしスピードスケートの高木美帆選手は「ミポリン」などとは呼ばれません。
「いや、15歳は子供じゃないから」という反論もできるでしょうが、ゴルフの横峰さくら選手に上田桃子選手、そして宮里藍選手は17~18歳から露出頻度が高まったにも関わらず、それぞれ「さくら」「桃子」「藍ちゃん」と呼ばれています。
しかし単に名前呼びだけの件だけでなく、「ちゃん」の有る無しもどのような基準があるのでしょうか(笑)
小田嶋氏はそこに『アスリートの位置づけ(視聴者とアスリートの距離感)の変化』を見ます。

曰く、著名なアスリートは、昔は「あこがれの存在」であり、「理想の父親」像だった。
ところが、今求められるのは「愛でる存在」であり、「理想の息子や娘」像だと。
ゴルフの石川遼選手も「遼くん」ですね。
そして「問題は、一種の禁じ手ないしは裏技であった名前呼びを、野放図に応用した後の世の追随者の安易な姿勢のうちにある。そう。彼らは、滅多矢鱈と選手を名前で呼びはじめた。おかげで、メディアとアスリートの距離がデタラメになってしまった。さらには視聴者とアスリートの距離感さえもがぐちゃぐちゃになった」と結論づけています。
ただ、個人的にはこの距離感の変化は悪いことではないと考えています。
確かに馴れ合いに近いものも感じますし、我々視聴者が彼らアスリートを身近な知り合いのように取り扱うことは慎まなければならないでしょう。
しかし距離感の変化により、その競技で「私も真央ちゃんみたいになりたい」「遼くんのように活躍したい」という子供達が増えるのであれば、それはメリットも大きいはずです。
また、アスリートに理想の息子や娘を重ね合わせるのは、少子高齢化の社会においては仕方ないこととも言えるでしょう。
そして何より、アスリートの名前呼びが増えてきた最も大きな要因は、『若い頃から超一流の日本人選手が増えた』ことにあると思うのです。
中国や韓国に比べれば、まだまだアスリートの育成に課題の多い我が国ではありますが、それでも浅田真央、石川遼、宮里藍といった「世界の一線級と堂々と渡り合える超一流アスリート」が生まれてきたという現実を、素直に喜ぶべきと思うのです。
既に石川遼選手は、メディアで「遼くん」とリポーターが気軽に話しかける存在ではなくなりつつあります。
彼が海外の大会を制し、あと2~3年も立てば、多くの視聴者は「石川選手」と呼ぶようになります。
浅田選手もソチでは「真央ちゃん」とは呼ばれていないでしょう。

さて、最後にアスリートの名前呼びに関する私の仮説をひとつ。
与党内でも議論になっている「夫婦別姓」ですが、我が国において“姓”の重要性が薄れてきているのも、この名前呼びの背景としてあるのではないでしょうか。
好むと好まざるとに関わらず、“家”に紐付いている“姓”より、自分ひとりのために付けられて個性すらも表現する“名”の方を重要視する人が増えているのでは?
皆さんはどう思われますか?

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