ファカルティズ・コラム
2010年04月16日
川幅が狭く土手も低い社会
先日同僚達との会話の中で、この春の新社会人達の社会性の欠如が話題になりました。
駅など公共の場所での振る舞いに対して「それは酷い」と笑い、「新入社員研修から見える最近の傾向は~」「やはりゆとり世代は~」などと話していたのですが、私はそこで疑問が出てきました。
「社会性の無さって言うけど、それって新社会人はアタリマエなんじゃないの?」
自分自身の新入社員時代を思い返してみても、最近の新人達より社会性が高かったなんてとても思えません。これは私一人だけでなく、同期入社の連中を見回しても、です。
田舎から出てきたばかりで電車の乗り方も知らない。
飲み会では大騒ぎして周りのお客さんにも迷惑をかける。
話しながら広がって歩き、交通の妨げになる。
今思い返すと恥ずかしい限りですが、これが実態です。
このブログをお読みの管理職の方、あなたは本当に最初から社会性を有していましたか?
当時からこうした行いに眉をひそめる人は多かったのでしょうが、それでもなんとなく「まあ若いんだから大目に見てやるか」と許容されてきただけではなかったのでしょうか。
では、なぜ我々は若者に寛容でなくなってきたのでしょう?
私は2つの仮説を立ててみたのですが、今回はそのひとつ。
「対若者だけでなく、全てに対して社会全体の『許容範囲』が狭まっているからでは?」
言い方を変えると、「みんながイライラしていて、ちょっとしたことにも目くじらを立てる」社会になってきたことが、若者に対して寛容でなくなった原因のひとつだと思うのです。
さらに深掘りしてみましょう。
なぜ我々の許容範囲が狭まっているのでしょうか。
これ、河川のメタファーで考えてみました。
自身の許容範囲を超えて怒り出す、という行為を河川の氾濫に置き換え、川が氾濫する理由から水量増加という外的要因を除きます。
すると内的要因は『川幅が狭い』と『土手が低い』の2つ。つまり川幅が広く、土手が高ければ多少の大雨で水量が増えても河川は氾濫しないわけですね。
さて、これを心理状態に戻して考えてみましょう。
『川幅が狭い』は「ある状況下で不快と感じる点が多い」と言い換えられるでしょう。
「あれも不快これも不快」と気に入らない点が多く、感覚が過敏になっている状態です。
そして『土手が低い』というのは、「不快なことを我慢できる限界値が低い」ということ。
ちょっとくらい不快でも「怒るほどじゃないな」と思えなくなっている状態です。
では、それぞれ原因を考えてみましょう。
心の川幅が狭くなってきた(様々な不快な出来事に対して過敏になってきた)のは、不快な経験が少ないからではないでしょうか。
たとえば真夏に電車に乗って、たまたまその車両の空調が故障していたとしたら、怒り出す人は多いでしょう。
しかし20年前は冷房設備のある電車が来たら「ラッキー」だったはずです。
また、人と待ち合わせているのに来ない。携帯電話で連絡を取ろうにも繋がらない。やっと来たので遅れた理由を聞くと携帯電話の電池切れとのことで、「ちゃんと充電しとけ!」と怒ってしまう。
でも携帯電話の無かった時代ならこんなことで怒りはしなかったはずです。
そう、我々は日常の快適さや便利さに慣れすぎてしまったのです。
快適であり便利なのが「アタリマエ」になってしまったために、それが少しでも阻害されると目くじらを立てるようになってしまったと言えるでしょう。
次に土手(我慢の限界値)が低くなったのは、「我慢しなくいい」と思える社会になったからだと思います。
「辛かったらやめてもいい」「逆らうことも権利」などの欧米流の個人主義や人権主義が広がったことで、今までは我慢していたことに我慢しなくなったのです。
もちろん私はそれが悪いと言いたいわけではありません。
たとえばタバコの害から身を守る分煙化や、バリアフリーの進展はこの流れなしには実現しなかったでしょう。
ただ、なんでもかんでも我慢せずに主張することが多くのマイナスを生み出していることも事実。
ちょっと我慢すれば周りとうまくやれるのに、とにかく言いたいことを言ってばかりでは、まとまるものもまとまりません。
我々日本人が重んじ、そして強みだったはずの“和”の精神が失われるのは良いことではありません。「グローバルスタンダートに合わせる」ことも必要ですが、それだけでは「着いていくのが精一杯」になり、決してグローバルでトップには立てないと思うのです。
中国の経済的な躍進のひとつの要因には、巧妙な中国式の交渉スタイルがあるのですから。
こう考えていくと、我々が対若者だけでなく様々なモノゴトに寛容になるための課題も見えてきます。
まず『川幅を広げる』ためには、「昔はこんなに快適・便利じゃなかったんだよな」と思い出すことでしょう。
「昔は良かった」と過去を懐かしむのも結構ですが、今がいかに快適で便利か、いかに現代の我々が恵まれているのか、それをもっと認識すべきです。
同様に若者の振る舞いにイラっと来たら、「自分の若い頃はどうだったか?」を思い出せば良いのです。
加えて、あえて不快・不便な環境に身を置いて「慣らす」ことも必要です。
携帯電話やPCを2~3日使わなくたって、そんなに大問題は起きないこと。
駅の汚いトイレだって用は足せること。
対若者、という観点で言えば、どんどん若者の輪の中に入っていけば良いのです。
これは単に「若者の振る舞いに慣れる」という効果だけではありません。
彼らを表面上(見た目や振る舞い)だけでなく、本質を理解することにも繋がるはずです。
多少若者達から「ウザい」と思われようが、周りから「若い連中に迎合している」と思われようが良いではありませんか。
重要なのは彼ら若者を「活かす」ことなのですから。
そして『土手を高くする』には、「自分だけでなく周りの人のことも一応は気にかける」ことと、「自分が我慢しないことのメリットとデメリットを考えてみる」ことを意識する(させる)と良いでしょう。
「後々のことを考えると、今我慢した方が自分にとっても得」である場合も多いのです。
若者に対しても、ここで怒ることが本当に彼らに対しても得策なのか、しばらくは我慢して任せた方が良いのか、冷静にかつロジカルに考えましょう。
前述の『あえて不快・不便な環境に身を置いて「慣らす」(若者の輪に入る)』のは、「このくらいどうってことない」と土手を高くすることにも繋がります。
さて、ひとりの社会人の先輩として、そしてオジサンとして「もっと若者に寛容になろう」という話をさせていただきました。
これは決して若者達を「甘やかす」ことではありません。
もっと「許容する」ことを皆さんにもお願いしたいのです。
ただ、新社会人達へもお願いがあります。
我々小うるさいオジサン達は、少なくとも君達の“敵”ではありません。
我々も昔の自分も思い出しながら、君達を長い目で見ていくつもりです。
ただ我々も人間です。
カチンとくれば感情的になって声を荒げることもあるし、君達のアタリマエが我々にとってアタリマエでないことも多々あるということは理解してください。
そしてタマには「10年後の自分は後輩に何を言うべきか」と、未来を想像してみてください。
まあ、「お互いタイヘンだ」くらいはお互い認識しましょう。
ところで、今回のエントリー。
その内容だけでなく、思考プロセスも参考にしてみてください。
ポイントは「メタファーで考える」「分けて考える」ことのふたつです。
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