KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2010年05月28日

表面的な関係を志向する彼女たち

昨夜我が娘(高一)となかなか興味深い対話を行いました。
それは娘がクラスメートに対して抱いた疑問が出発点だったのですが、私自身も教育に携わる人間として考えさせられる内容だったので、このブログを通して皆さんとも共有したいと考えました。
娘の話はこの一言で始まりました。
「なんで女子ってああなんだろう。あーあ、男子になりたい」
論理思考の講師として娘には小さい頃から「常識や人の話を疑え。自分の頭で考えろ」と言ってきたこともあり、こうした疑問を持つことには大賛成で(とは言いながら少々指導が過ぎたようにも感じています(笑))、ただの独り言とも思えなかったので口を挟みました。
「どんなところが理解できないの?」

娘曰く、携帯依存症とも言えるほど授業中でも隠れてメールを打っているクラスメートが多い(それも全部女子)らしく、さらにもう少し掘り下げて聞くと、どうも単にメールばかりやっていることに疑問を持っているわけではないようです。
「メールの数に驚いたというより、その中身のなさに驚いた」
のが、冒頭の疑問に繋がったようでした。
メールの内容が、『○○を見た/やった』で終わっており、その感想などはほとんど出てこないらしいのです。
つまり事実の記述に終始し主観的な意見が無いとのことで、正直私もそれには驚きました。
また、メールするつもりが無くてもとにかくクラス全員のメールアドレスを聞き、登録するらしいです。そして仲間内でどれだけのアドレスが登録されているかを報告し合っているとのこと。
さらにそれは携帯電話だけの話ではなく、とにかく『数』にこだわる傾向があるらしいのです。
具体的には前述の「メアドの登録数」だけでなく、「日曜日に行ったお店の数」「カラオケにいた時間」etc…
驚いている私に娘が言いました。
「要するに、広く、浅い付き合いしかしたがらない子が多いのよ」
何を偉そうに・・・と思いました(笑)が、「できない」でなく「したがらない」という表現をしたところがポイントだと考えました。
私はこう言いました。
「意見のない事実のみの対話は、表面的な付き合いしかしたくないのかもね」
「その意図だけど、主観を入れることで対立が起こることを感覚的に避けているのかもしれないね」
前回のエントリーでも述べたように『本質』の反対語は『現象』、『本質的』の反対語は『表面的』です。
彼女たちの「今どこ?」「○○に行ったよ」という娘の言う「内容のない」メールは、現象の記述でしかなく、非常に表面的と言えます。
「だからどうなんだ」という現象の本質に向かう、主観の入った『意見』が無いわけですね。
これを「自分の意見もないのか」と言ってしまうのは簡単です。
しかし、私は彼女たちのこの内容のない大量のメールは、関係性の持続を望むと同時に、主観を入れることで対立を生み、関係が壊れることを恐れるあまりの防衛行動のように思われるのです。
そう考えると、「メアドの登録数」といった『数』にこだわるのも、主観のはいる余地のない表面的なモノサシに頼らなければ、自身のアイデンティティが保てないと感じているからなのかもしれません。


しかしながら、本来友達とは「面倒臭い」ものです。
どうでも良いことでぶつかり、喧嘩もします。
そしてそれは本音が言える関係であること、つまりお互いの本質の相互理解が成立していることが前提となるはずです。
現象、つまり身の回りに起こった事実だけを報告し合い、それに対する意見を本音で言わないという関係は、ただの知り合いでしかありません。
ヒトは単独では自己を認識できません。
他人との関係性によって個を確立するとも言えます。
しかしながら彼女たちのこの「たくさんの繋がりがほしい。でも深い・濃い繋がりはいらない」という思考特性は何に起因するのでしょうか。
と実はこの問いを昨夜twiiterで投げかけたところ、大変貴重なご意見をいただきました。
社会学者の宮台真司氏が、著書『日本の難点』で、「人間関係を形づくるものが、「関係性の履歴」から「事件あるいはシーンの羅列」に変化した」と言われているようです。
そして彼はその経緯を「移動や交通や通信の自由度が増すと選択肢が増えるために、近い希少な人間関係の維持にコストを払わなくなり、コミットメントが脱落する。それは流動性の上がった人間関係に対する合理的な適応である」と説明します。
私にtwiiterでリプライしたいただいた方は、これを「濃密な人間関係を経験していない人たちには、少数の関係性よりも取替えのきく事実が大切なのだ」と解釈されています。
なるほど。
『人間関係の維持コストの低下』というのは意外でしたが、個人的には納得できます。
しかし、だからといってそれを「流動性の上がった人間関係に対する合理的な適応」と認めてしまうのには抵抗があります。
お節介であることは百も承知ですが、本当にそうした『客観的事実と数の論理』に重点を置いた人間づきあいで良いのでしょうか。
もっと本音でぶつかり、お互いに傷つきながらもその経験から学ぶという人間関係の学習サイクルを回すことは今後必ずプラスに働くと思うのです。
幸いなことに我が娘は「表面的な友達面をしたのが50人いるより、5人の親友がいた方が良い」と言ってくれています。
親としては一安心なのですが、クラス内で孤立するリスクもあるため、どちらにしても心配の種は尽きませんが(笑)


といったことを妻に話したところ、こう言われました。
「そうした子たちも、恋をして、失恋の一つも経験すれば変わるわよ」
な、なるほど・・・(笑)

メルマガ
登録

メルマガ
登録