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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2010年10月14日

「議論しましょう」は適切か

とあるML(メーリングリスト)で、こんなやり取りがありました。
(以下は内容そのものではなく、意図が変わらない程度に編集しています)
Aさん:(Bさんのメールを受けて)
 「それ、このMLで議論してみてはどうでしょう?」
Bさん:
 「『議論』という言葉に戸惑いを覚えました。議論はしなくても、色々な人があるテーマで何を考えどう感じているかを聞くだけでいいと思います」
Cさん:
 「それは『議論』という言葉のとらえ方の違いでは」
確かにCさんの仰るとおりなのでしょうが、日頃から(本ブログでも繰り返し語っているように)「言葉の定義」に関心が高い私は、ここからこう考えたのです。
「ファシリテーターって言葉選びに気を配るべきだなあ」

辞書を引くと、『議論』とは「さまざまな事柄に関して意見を述べ合ったり、意見を戦わせ合ったりすること」の意ですから、Bさんの言われた「ただ自分の考えを話し、人の考えを聞き、共有する」という意味も含まれます。
Aさんの『議論』の使い方は何も間違ってはいないわけですね。国語的には。
しかし、もうひとつの「意見を戦わせる」という意味で取ることもできる。
いや、そちらのニュアンスの方が強いくらいかもしれません。
だからBさんが、『議論』という言葉に戸惑いを感じるのも間違っていないわけです。
ちなみに『議論』の類義語で『論議』がありますが、こちらは「『議論』の硬い表現」とともに、「理非を論じ合う」という意味があるそうです。(辞書を引いて今日初めて知りました)
つまり『議論』より『論議』の方が「意見を戦わせる(結果的に勝ち負けを決める)」というニュアンスが強い言葉のようです。


さて、ここからが本題です。
会議やイベントなどでファシリテーションを始めるにあたり、今から我々(あるいはあななたち)が「何をやる(やってほしい)のか」を伝え、その心づもりをしてもらうことはとても大切です。
その場面で「では、~について議論しましょう(してください)」と言うのが適切かどうか?
そうしたこともファシリテーターは事前に考えておくべき、と今回気づかせてもらいました。
今回のMLでのやり取りのように、やはり『議論』という言葉から「意見を戦わせるんだな」と考える(というより感覚的に受け取る)人は多いでしょう。
そうした心づもりで臨めば、たとえ本来やってほしいのが「意見を戦わせること」でなく、「思いを話し、共有すること」であったとしても、参加者は「他者を言い負かそう」という行動に出るかもしれません。
その結果は残念なことになるでしょう。
だからワールドカフェ等にはこの『議論』という言葉は不向きと言えます。
「ワールドカフェなら『ダイアローグ』でしょ」と言いたい方もいらっしゃるでしょうが、『ダイアローグ』は一般の人には馴染みが薄い言葉です。
そこで『ダイアローグ』を『対話』と言い換えて使うことも多いわけですが、この言葉も違和感を感じる人もいます。実は私もそう。
これまたしつこく辞書を引くと、『対話』とは本来一対一でやるもので、「市民対話集会」のように複数人の場合であっても、「2つの立場に分かれている」のが基本らしいです。
だから私もワールドカフェの『対話』という言葉に違和感があったのですね。
ちなみに『対談』は一対一の2人でやるもので、『鼎談』は3人でやるもの、ってご存じでしたか?
やはり『対』という文字に表と裏、あっちとこっちのような「2つの立場」の存在が含まれているのですね。


脱線しました(笑)
さて、これらのことから最善策ではないのでしょうが、私自身はワールドカフェで『対話』とか『ダイアローグ』も使いますが、ワールドカフェそのものを説明するときには「『話し合い』の手法です」と説明しています。
やはり『議論』という戦闘モードの高い言葉は使いません。
『話し合い』は『議論』なども包含する抽象的な概念なので無難、なのですね(笑)
ただ、単に無難なだけでなく、『話し合い』という言葉は堅苦しさもなく、さらに濁点もないので響き自体が柔らかいのも見逃せないところです。
ちなみに『ダイアローグ』の日本語訳には『対話』だけでなく『話し合い』や『意見交換』もあります。
しかし私はやはりワールドカフェであれば『話し合い』を推します(笑)
『対話』は前述の通り一対一のニュアンスがありますし、『意見交換』ってのも四字熟語でカッチリし過ぎててなんか硬い(笑)
なんとなく効率優先って感じがしませんか?
また脱線しました(笑)
さて、しかしながら会議やミーティングでは、「どちらの案を採用するか」のような「意見を戦わせる」ことが必要な場面もあります。
このような場合は『議論』で良いでしょうし、さらに戦闘モードの強い『討議』や『討論』を使った方が良いこともあるでしょう。
『討』って、『敵討ち』『討伐』のように、かなり「戦う」ニュアンスが強い言葉ですから。


「細かいこと気にし過ぎ」だと思われるかもしれません。
しかし、我々は言葉を使って思考し、コミュニケーションしています。
語尾を上げるのか下げるのかで全く意味が変わったり、そればかりかちょっとした言い回しの違いで共感されたり反感を持たれたりするのは、誰しも経験しているはずです。
ましてやファシリテーターともなれば、この場をどのような場にしたいのか、そしてそのような場にするためには、どう説明すれば良いのか。
これに心を砕くことができなければ失格だとすら思います。
言葉選びに「慎重になりすぎる」のも確かに本末転倒です。
それで結局何も言えなければ意味がないわけですから。
しかし語るべきことがある時、「どの言葉を選ぶのが適切か」を一度は考えてみても良いのではないでしょうか。

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