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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2010年10月22日

建設的な議論をしよう

会議でも、またメールやtwitterでも議論の大好きな人がいます。
いや、『議論』というより『討論』や『論議』の方が適切かもしれません。
前回のエントリーで述べた、「勝ち負けを決める」議論のことです。
そういう「とにかく自分の言い分を通そう」という姿勢の人を見ると、「論破することが目的なのかなあ」と思うことがあります。
もちろんそれを否定はしません。単純に議論をゲームととらえることも可能だからです。
『2ちゃんねる』のユーザーによく見かけるタイプですね(笑)
しかしそれがゲームでなく、本当に「方向性を明確にしたい」とか「問題の所在を明らかにしたい」などの目的があるとしたら・・・
論破することが目的ではないはずです。
それなのになぜ我々(この状態になる可能性は全ての人にありますから)は、「自分は正しい。あなたは間違っている」という姿勢で論破しようとするのでしょうか。

そもそも論になりますが、私は「正しい/間違っている」という判断が下せるのは、厳密には3つのケースしかないと思っています。
まずひとつ目が「事実か否か」。
「昨日のお昼ご飯はラーメンを食べた」と述べ、それが本人の思い違いや嘘でなく事実であると証明できれば、その主張は『正しい』と言えます。
2つ目は「科学的に再現性が証明されているか」です。
「水は1気圧の状態で零度以下になると凍って液体から固体になる」という主張に「そんなの間違ってる。俺は信じない」と言ってもムダですよね。
(これ、厳密に言うと過冷却の状態では零度以下の水も存在しますが)
そして3つ目が「法などのルールに照らし合わせてどうか」です。
「人を殺してはいけない」のは社会のルールです。これに反する行為は「間違っている」と言わざるを得ません。明文化された法令だけでなく、マナーなどもこれに含まれるでしょう。
こう考えると、この3つのどれにも当てはまらないものを「正しい/間違っている」と断ずるべきではないのです。
具体的に言うと、「今日の晩ご飯に何を食べるか」や「新商品として何をリリースするか」とか「どうやってあの人の怒りを静めるか」などに唯一の『正しい答』など無いということです。


ハーバードのサンデル教授の”正義”に関する哲学の授業が話題です。
東京大学での特別講義はNHKでも放映され、twitterでも実況は盛り上がりました。
本を読んだ方、またTVで彼の授業を見た方はご存じの通り、あれは「正義とは何かを決めたり教えたりする」授業ではありません。
いくつものケースを使って、「自分はこれが正しいと思う」主張を述べ、また他者の主張にも耳を傾け、そして一緒に考えることが大事なんだ、ということを学ぶ授業です。
いみじくもあるtwitterユーザーの方が言われていました。
「正義と対立するのは不義じゃなく、別の価値観に立脚したもうひとつの正義なんだよね」


正義と正義の対立ほど不毛なものはありません。
世間一般から見ればテロリストでも、彼らは彼らの正義を貫くために戦っているのです。
だからそういう不毛な議論を防ぐためにも、私は「正しい/間違っている」という2項対立で考え、議論をするべきではないと考えます。


「正しい/間違っている」という論破を目的としたような議論を見て(聞いて)いていつも思うのは、「『間違ってはいない』となぜ考えられないのかなあ」ということ。
「正しい/間違っている」ではなく、「間違っている/間違っていない」でまず分けるべきだと思うのです。
そう、「明らかに虚偽(事実でない)」の主張、「科学的に否定できる」主張、そして「ルールに照らし合わせると明らかにおかしい」主張が『間違った主張』であり、そうでない主張はすべて『間違ってはいない』のですから。
まずこの3つのモノサシで『間違った主張』を排除し、そして「自分のこの主張は間違っていないし、あなたのその意見も間違ってはいない」ことを共有する。
これが議論の真のスタートラインです。
ただ「あなたの言われることも間違ってはいません」と認めながらも、その後「でも私はこう思うのでそれを譲るつもりはありません」となっては元の木阿弥(笑)
(まあそうならざるを得ない場面ももちろんありますが)
「Aという答も、Bという答も間違ってはいない」ことが共有できたら、次の方向性は2つです。
ひとつ目が「で、AとBどちらがより『適切』なんだろう?」と一緒に考えること。
個人の主観をぶつけるのではなく、客観的なモノサシを複数(たとえばコストや市場へのインパクト、技術的難易度など)用意し、それで公平に決めれば良いのです。
これであればたとえ自分の主張が通らなくても、「お前の主張は間違っている」と言下に否定されたのとは格段の違いがあるはずですし、より適切な答にもなりやすいのは確かでしょう。
そして2つ目の方向性が、「で、他のもっと良い答ってないのかな?」と一緒に考えることです。
単に受けとめて認め合って終わり、でなくそこから新たな何かが生まれる。2つの答を組み合わせることもできるかもしれない。
これこそが『コラボレーション』であり、議論の醍醐味だと思いませんか?


いかがでしょうか?
正義をぶつけ合って論破しようとするのが『不毛な議論』だとしたら、こうしてお互いの主張が間違ってはいないことを共有し、次にロジカルに適切な方を選んだり、別の答を一緒に考える・・・
こういうのを『建設的な議論』と呼ぶべきだと思うのです。

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