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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2011年07月28日

断言とリスクと戦略とリーダーとの微妙なスパイラル

牛肉の放射能(セシウム)汚染が問題になっています。
我が家でも、ニュースを見ながらこんな会話がありました。
私:「そう言えばこの間スーパーでさあ、『ここ、福島産牛肉は置いてないでしょうね』と店員さんにしつこく聞いてるおばさんがいたよ」
奥さん:「まあでも気持ちはわかるわね」
私:「そう? 別に基準値ちょっとくらい超えていたって、毎日牛肉ばくばく食うわけじゃないから、何の問題もないじゃない。ほら、そうやって床に落ちたポテチ拾って食べる方が問題だよ」
奥さん:「でもね、危ないかもしれないってものを『わざわざ』食べる必要もないじゃない。ポテチ拾って食べても少なくとも命に関わることはないでしょ? 今まで大丈夫だったんだし」
私:「まあ、それもそうだけどね」


さて、皆さんはこの問題、いや、牛肉のセシウム汚染だけでなく、放射線の暫定基準値、また交通事故やビジネスなどにおける様々な”リスク”についてどう考えますか?

「なぜ絶対大丈夫だと断言できないんですか?!」
『断言できないということは、健康被害のリスクはゼロではないんですよね?! 要するに安全に関して自信がないということでしょう?」
「リスクがゼロではないのに放射能の基準値を引き上げるのは、何か隠蔽しているからじゃないですか? あるいは利権が絡んでいるからじゃないですか?!」
マスコミだけでなく、こういう論調を最近よく目に(耳に)します。
不安があるのはわかります。特に放射能は目に見えませんから。
特に小さいお子さんをお持ちの親御さんが、この問題にナーバスになるのは当然でしょう。
しかし、冷静に考えてみてください。
「リスクはない」と断言できるものって、私たちの周りにどれだけあるのでしょう?


そもそも私たちが誰かに断言を求めるのはなぜでしょう。
それは「安心したい」からではないでしょうか。
もっと意地悪い言い方をすれば、それは「責任を断言した誰かに押しつけるため」ではありませんか?
しかし、現実に「断言できることとできないこと」があります。
それこそ「リスクがゼロではない」ことは断言できるでしょうが、「安全である」ことは断言できません。これは放射能汚染の問題だけでなく、全ての自然災害や人為的事故など、全てのリスクについて同様です。
特に真実を追究することが使命の科学者であれば、「ゼロではないものをゼロとは言えないし、言ってはいけない」のです。
逆に言えば、『断言する科学者』ほど胡散臭いものもいないのです。
ですから、全てのリスクについて私たちが考えなければならないのは、『リスクの優先順位』であり、着目すべきはその優先順位のモノサシとなる『確率』、そして確率の拠り所である『統計データ』なのです。
たとえば医薬品について考えてみましょう。
医薬品にはなにがしかのリスクがあり、私たちはそれを副作用と呼びます。
しかし、副作用のリスクと効能によって排除できるリスクを統計データから確率という天秤にかけ、後者を優先させたからこそ医薬品は作られ、売られ、服用されているはずです。
副作用のリスクは「わかった上で受け入れている」のです。
そう考えると、原発事故のリスクについてどれだけ政府・自治体・電力会社・財界が正当に評価していたか、については甚だ疑問と言わざるを得ません。
また、リスクの説明責任を果たしていなかったことも糾弾されるべきでしょう。


しかしながら、それでも私は昨今の脱原発の大合唱には疑問を感じます。


誤解無きように付け加えますが、私は感情論を否定しているわけではありませんし、「我が子を守りたい」という親御さんの気持ちは当然だと考えています。
しかし、個人が主観的に主張するのは当然としても、組織はそれでは成り立っていきません。
だから「原発の是非は国民投票で」という主張には断固反対です。
ましてや政府の中からそういう発言が出てくるのは、国の方向性を決める立場としての責任を放棄しているとしか思えません。国民に責任を押しつけているとすら言えるでしょう。
国の方向性とは言い換えれば国家戦略です。
戦略とは選択に他なりませんから、様々なメリットとリスク(デメリット)を確率という天秤にかけて優先順位を決め、「こういうリスクはあるけどこちらに進む」ことを決めなければなりません。
そしてそれはリーダーの使命であり宿命です。
リスクを受け入れるということは「泣く人がいることをわかっている」ということ。
でも喜ぶ人の方が多いからこそ、組織としてはそれを選ばざるを得ないのです。
「みんなの意見を聞いて決める」ことが必要な場合もあるでしょうが、自分も含めた個人の感情に左右されず、データからロジカルに決断し、その責任を取るのがリーダーです。
そして首相であれば、「日本のためにはこれが一番の選択なのです」と断言しなければなりません。


そう、科学者は安易に断言してはいけませんが、政治家は断言しなければならないのです。
それは科学者としての、そして政治家としての責任を果たすことでもあると思うのです。

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