KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2012年08月22日

『幸せ』の判断基準とその応用

 「幸せを誰かと比べない♪」
これは我が家が家族でハマっている『戦国鍋TV』の登場人物である『浅井三姉妹』が歌う『アザイドロップ』の一節です。
(「なにそれ?」と思われた方は、TV神奈川や千葉TVでやってますので、ぜひ一度観てください。爆笑しながらも「なんとなく」歴史が学べてしまいますよ(笑))
この歌詞の背景には、私たちが「誰かと比べて自分が幸せかそうでないかを考えがち」という現実があることは明らかです。
「だよなあ。幸せって自分が決めるもので、誰かと比較しても仕方ないよ」
はい、私もそう思います。
「幸せってやっぱり絶対評価するもので、相対評価じゃないんだよね」
うーん。ちょっとそれには同意できませんね。
「なんで?!」

以前のエントリーでも書きましたが、私は「真の絶対評価など存在しない」という立場です。
今回の論点である『幸福感』にしても、たとえ他者とは比べていなくても「自身の過去」とは必ず比較しているはずです。
「以前と比べて幸せかどうか」を判断しているわけですね。
しかし同じように他人、または自身の過去と比較しても「自分が幸せと感じるかどうか」は2つのモノサシで私たちは判断しており、だからこそ幸せの感じ方に個人差が出てしまうのではないでしょうか。


まずひとつ目が『比較した結果の受容度』、つまり「どのレベルから幸せと感じるか」です。
他者や自分の過去と比較して「それより上でないと」幸せと感じないか、「それより下でなければ」幸せを感じるか、ということです。
「今日もご飯が食べられる」ことに幸せを感じる人もいれば、「今日も代わり映えのしないご飯を食べるしかない」ことを不幸せと感じる人もいます。
「幸せ~ってなんだっけなんだっけ♪」というCMソングもありましたね(笑)
この『幸せの感度』とでも呼ぶべきものは、持って生まれた資質+経験で醸成された価値観に根ざすものであり、「どちらが正しい」というものではありません。
厳密には「どちら」と言うより、「どのくらいのレベル」でしょうか。
だから自分から見ればちっぽけなことに幸せを感じる人に「その程度で満足するな。お前はそういう上昇志向がないところがダメなんだよ」と言うのも、また何でも他人や過去と比べて一喜一憂する人に「神経質すぎ。お前はそういう心が狭いところがダメなんだよ」と言うのも、どちらも同じく大きなお世話なのです。
変わらない幸せもあれば、(プラスに)変わることの幸せもあるはずです。


そして幸福感の2つ目のモノサシが『総合的判断の度合い』、つまり「個々の事象を個別に判断するか、それともトータルで幸せかどうかを判断するか」です。
ご飯を食べるとして、一皿ごとに「あー幸せだ」「これはちょっと・・・」となるか、それとも全部食べ終わってから全体を通して評価し、「あー幸せだ」となるのか、ということ。
これもまた個人の好き好きであり、「どちらが正しい」とは言えません。


さて、ここまでは『幸福感』を題材に
◆評価とは他者、あるいは自らの過去との比較論で決まる。
◆比較した結果は、さらに『受容度』と『総合判断度』という2つのモノサシで○か×かが判断される。
ということについて見てきました。
この考え方、ビジネスでも応用できるはずです。
たとえば「今年度の商品戦略を評価する」という場面で考えてみましょう。
「みんな頑張ったらいいんじゃない?」で済ますわけにはいきませんよね(笑)
競合他社と比較して「成功した」と言えるのか。
昨年の戦略と比較してどうなのか。
この「成功かどうか」の評価が、本日題材として取り上げた「幸せかどうか」に対応するわけですね。
そして比較した結果をさらに「満足できる(成功したと言える)レベルかどうか」で評価する。
ビジネスでは、その具体的モノサシとして売上高などの『定量評価が可能なモノサシ』が必須なのは言うまでもありません。
KGIやKPIはそのために存在します。
加えて個々の評価ポイント(たとえば売上高・売上伸長率・利益率・スタッフの成長度など)だけでなく、「総合的に判断して成功したと言えるのか」を評価する。
様々な戦略、あるいはプロジェクトをこうした複数のロジカルな切り口とステップで私たちは評価すべきではないでしょうか。
それこそが人や組織の『公正な評価』に繋がり、そして次の戦略やプロジェクト運営の質を上げる、と言ったら言い過ぎでしょうか。

メルマガ
登録

メルマガ
登録