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ファカルティズ・コラム

2013年05月17日

橋下発言とその論評に欠けている視点

従軍慰安婦問題に関する、橋下徹日本維新の会共同代表の発言に批判が集まっています。
また、一部には「当然ことを言ったまで」という論調も存在します。
本当は、センシティブかつ政治的なトピックについてここで論じたくはないのですが、批判にしろ賞賛にしろ、今回の発言に対する様々な意見を目に、耳にして思うことがあったので、少し私の意見も述べておきたいと思いました。
なぜならば、本問題について語る際、考慮すべき重要な視点が、橋下氏と論評する意見の双方に欠けていると感じたからです。



最初に私個人の本発言に関する見解を述べておきましょう。
彼の一連の発言は、まず2つに分けて考えるべきです。
ひとつが、『間接的には韓国も意識したとは言え、直接的な相手としては国内メディアに対して発言したもの』。多くはこちらですね。
そしてもうひとつが『直接他国に向けて発言したもの』。既報の通り、米軍普天間飛行場司令官に対する「風俗の活用を」という発言です。
まず後者の「直接他国に発せられた」発言に対しては、弁護の余地無しと考えます。
なぜならば、いかに氏が「本音を語る」ことを売りにした政治家とは言え、外交では決してそれは通用しないからです。
「日本人は本音と建て前が違う」などと良く言われますが、実際は日本人以上に外交では『とにかく建て前』が原則です。
建て前のみを、場面に応じて表現を変えて述べることで、「本音を匂わせる」のが、外交におけるグローバル・スタンダード。
だから共同声明などでは、徹底的に”てにをは”にこだわり、複数の解釈があえてできるような表現にし、参加国すべての対面を保とうとするのです。
今回の米軍司令官への発言は、それを根本から無視している。
外交におけるコミュニケーションのイロハが、まったくわかっていないという点で、政治家としてあるまじき国益に反する発言です。
これさえなかったら、米国の政府やメディアでここまで叩かれることはなかったでしょう。本当に残念なことです。


では、前者の『直接的には対国内』発言はどうでしょう。
これに対しては、「批判は当然あるだろうが、間違ったことは言っていない」とは思います。もちろん「正しいことを言っている」とも全然思っていませんが。
しかし、前述の通り「重要な視点が欠けている」という点においては批判されるべき発言である、というのが私の見解です。
さらに言えば、私は全く同じ理由、つまり「重要な視点が欠けている」という点において、現在橋下批判を行っているほとんどの意見も同様に批判されるべきと考えます。
では、その橋下発言およびそれを批判する発言に欠けている視点とは何か。


それは『風俗とそこに従事する女性の位置づけの多様性』です。
具体的に説明しましょう。
橋下氏は「男とは性衝動を抑えられない生き物」「軍人という極限状態はなおさら配慮が必要」と述べています。
それに対し、「女性を性奴隷と考える女性蔑視の発言」「軍人さんに対しても失礼」という論拠で多くの批判が為されています。
私に言わせれば、これ、橋下氏も批判派も、どちらも「女性と軍人を馬鹿にした発言」と映ります。
それはなぜか。実は橋下氏と批判派、共通しているのは
・風俗とは男性が性欲を満たすために(だけ)存在する。
・軍人はそこで従事する女性を性欲のはけ口として(だけ)見ている。
という風俗というハード、そしてその成立要件であるお客(軍人)と従事者(女性)というソフトの『表面的かつ画一的定義』です。
「表面的かつ画一的って、そういうものに決まってるだろう!?」と思いますか?
ちょっとで良いので考えてみてください。
軍人さん達がそういう場所とそこにいる女性に求めるのは、本当に自身の性欲の解消「だけ」でしょうか?
軍人さん達が、彼女たちに奥さん、彼女、そして母親の姿を重ね、一時の安らぎを得ようとしたという側面をなぜ想像できないのでしょうか?
彼らの中で「とにかく女性と話ができれば」「胸に抱いて頭をなでてほしい」という人もいたのではないでしょうか?
「女性蔑視だ」と騒ぐ人が、なぜ女性の存在意義を自分から限定してしまうのですか?
「軍人さんに失礼だ」と騒ぐ人が、なぜ軍人さんの心理面に思いを馳せようとしないのですか?
そもそも従軍慰安婦問題は、「強制連行だったかどうか」そして「それがあったとした場合、それは国が主導していたのか」が論点のはずです。
それをいつの間にか『必要論/不要論』に(意図的ではないかもしれませんが)すり替えてしまった橋下氏、そして『女性蔑視という感情論』によって批判している人々。
この両者とも、この問題解決をさらにややこしくしてしまったという点においては、同罪だと思うのです。
誤解無きように申し添えると、私は政治的発言に対する感情論を否定したいわけではありません。
国民感情の絡む外交も含め、感情を無視したら政治は成立しません。
また、損得勘定の絡む経済ですら、株価が期待や不安で上下するのを見てもわかる通り、感情について配慮するのは必定です。
しかし、脊髄反射的感情論で事態を複雑をするのは避けるべきと考えます。
なにより感情を重視するのであれば、今回私が言及したような『多様な感情』について考えるべきではないでしょうか。

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