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ファカルティズ・コラム

2007年06月06日

『鈍感力』という言葉の鈍感さ

少し旬は外してしまいましたが、渡辺淳一氏の『鈍感力』、まだまだ売れているようです。
(本日付楽天ブックスの総合ランキングで24位)
筆者としては、「ささいなことで傷つかない、強く前向きに生きていくために必要な力」としてこの鈍感力を位置づけているようです。
また、前首相が現首相に勧めたという逸話も喧伝され、「自信とはある程度の鈍感の上に成り立つ」と勇気づけられた方も多いかもしれません。
しかしながら、私はこの『鈍感力』という言葉には賛同できません。
こういうことを言うと、「ほらほら、すぐそうやって目くじらを立てるのが、鈍感力が足りない証だよ」と言われそうですが(笑)
誤解していただきたくないのですが、私はこの本の内容に異を唱えているのではありません。
『鈍感力』という言葉で、ひとくくりに語ることに問題があると言いたいのです。
その根拠は2つあります。



1.『敏感』は問題ではない

『鈍感』の反対語はもちろん『敏感』です。
筆者は様々な例を挙げながら、この『敏感』がもたらす弊害を説明し、「だから鈍感なくらいがいい」と結論づけています。
しかし、たとえば「神経質な母親の目を気にしておどおど生きている子供」というのは、『敏感』なのでしょうか。では「神経質な母親の目を盗んでしっかり遊んでいる子供」は『鈍感』なのでしょうか。
どちらも「それは違うだろう」と思われませんか?
前者は『敏感』というより『過敏』ですし、後者こそ『敏感』だからできることです。
どうも筆者は、『過敏』つまり「敏感すぎること」を『敏感』という言葉に意図的にミスリードしているように思うのです。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」、当たり前のことです。
つまり『過敏』という問題状況を、『敏感』というより広い概念にすり替え、その反対語としての『鈍感』を良い状態に位置づけているのです。

2.本当に求められているのは『鈍い』ことではない

本書では、鈍感力の最たるものとして『母性愛』が挙げられています。
赤ん坊のやることにいちいち目くじらを立てず、我が子が何か悪事をはたらいた場合でも全力で守る、これらは全て鈍感力の発露なのだそうです。
このくだりに違和感を感じないとしたら、それこそ「鈍感過ぎる」と言わざるを得ません(笑)
考えてもみてください。我が子が悪事をはたらいた場合に我が子を守ろうとするのは、その悪事を「たいしたことではない」と鈍感にとらえているのではないはずです。
また、赤ん坊のやることが「他人にどれだけ迷惑をかけているか」に鈍感になることは、決して母性愛ではないはずです。
もうここまで来ると、単に『鈍感力』という言葉ありきです。
では、この「鈍い(鈍感)」以外に適切な言葉は無いのでしょうか?
それは、「受け入れる(受容)」「許す(許容)」ではないでしょうか。
実は筆者も、「男と女の愛も見方を変えたら鈍感力で、愛する人のことなら、かなりのことでも許せます」と述べています。
つまり「鈍い」という“資質”が求められているのではなく、「許す」という“行動”こそが求められているのです。
しかし、『許容力』では本のタイトルとしてはあまりにインパクトに欠けます(笑)
ですから、あえて本来はあまり良い言葉ではない『鈍感』をタイトルに使うという意図はわからなくもありません。
しかし、それでは“言葉”を紡ぐプロとして「言葉に鈍感すぎる」と思います。
売るために言葉を雑に扱うのは、天に唾する行為です。
さて、『鈍感』の類義語には『散漫・疎い・無神経・無頓着』があります。
確かにある程度の鈍感さは必要でしょう。少なくとも、何にでも『過敏』になることは避けたいと私も思います。
ですが、この本を読んだ首相が『無神経』になったとしたら・・・

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