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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2014年04月11日

自分で自分に反論する

今回は自分にとって、実はかなり挑戦的なコンセプトのエントリーです。
なぜ挑戦的かと言えば、私が大っ嫌いなテレビの『ワイドショー』を、あえて擁護しようする試みだからです。
嫌いなものを褒める。
これ、意外と難しいです。
折しも、ワイドショーでは件のSTAP細胞の論文ねつ造のネタで持ちきりです。
また、32年間続いてきた『笑っていいとも!』が、先日ついに最終回を迎えましたが、個人的に「いいとも!」は「時事ネタのないワイドショー」だと考えており、やはり私の嫌いな番組でした(笑)
さて、そもそも私はなぜワイドショーが嫌いなのでしょうか。
あらためて考えると、以下の3点に集約されます。
1. 低俗な視点
 →「離婚か?」とか「割烹着が」とか、とにかくくだらない。
2. 論調の手のひら返し
 →持ち上げといて叩いたり、叩いといて持ち上げたりって恥ずかしくない?
3. イノベーションの姿勢が欠如
 →マンネリだし、出演者の違い以外に差別化のボイントは無いの?
では、これらの点について、自分で自分に反論してみましょう(笑)



1. 低俗な視点
「低俗」とは何を持って判断できるのでしょうか?
「高/低」とは当然比較論で語るべきものであり、たとえばワイドショーの対極にNHK Eテレの教育番組を挙げたとしても、Eテレの方が「高尚」だとする根拠は何でしょう?
それは個人の主観の問題であり、ワイドショーが低俗だと断ずるのは、単に自分が「一般大衆とは違う」という優越感を持ちたいだけではないのでしょうか。
「いや、多数決を採ったらわかる」と言いたいのかもしれませんが、番組のコンテンツはニーズが高いからこそ放送されている事実を無視すべきではありません。
つまりマーケット(視聴者)の大多数が、「見たい」と望んでいるコンテンツを低俗と貶すことは、あなた自身の方が少数派であることを示しています。
実際にEテレの視聴率がどのくらいか、調べるまでもないでしょう。


2. 論調の手のひら返し
「手のひら返し」のどこが問題なのでしょうか?
そもそも私たちの解釈や判断には、その元となる情報が必要です。
ですからワイドショーであるネタを取り上げる際は、「その時点での情報」を元に持ち上げる/叩く判断をするしかありません。
そして新たな情報が入れば。またその時点での情報(今までの情報も加味して)を元に判断する。
その結果が手のひら返し、つまり真逆の論調になるケースが出てくるのは、ある意味必然です。
それとも新しい情報を無視して、今までの論調を貫くべきとでも言うつもりですか?
それこそ単なる「意固地」です。
あなたには、論語の「過ちては改むるに憚ることなかれ」を贈りましょう。
えっ? 「十分な情報が出そろってから、正しい判断をすべきだ」ですか?
では、いつまで判断を留保すれば良いのですか?
どれくらいの情報が集まったら、「出そろった」と判断できるのですか?
こうした問いには誰も答えられません。
私たちは、やはり「現時点での情報」から判断するしかないのです。
また、テレビが速報性を無視して「もっと情報が出てから」などと考えれば、その存在意義すら危うくなってしまいますし、現代がスピードが要求される時代であることは、あなたもよくご存じのはずです。


3. イノベーションの姿勢が欠如
全てのものにイノベーションが必要でしょうか?
「変えるべきもの」は確かにありますが、「変えない方がよいもの」も、また確実に存在します。
その理由は、単に「変えることによるリスク」だけではありません。
「変えない」ことによる「安心感」は、ひとつの大きなメリットです。
テレビに絞って考えても、「サザエさん」や「徹子の部屋」は、なぜこれだけ長く続いているのでしょう。
これらにイノベーションは必要ですか?
「笑っていいとも!」にしても、「旬な芸能人に好きなように動いてもらい、タモリがうまくいなしながらコントロールする」というフォーマットを守り続けたことが、32年も続いた要因ではないでしょうか。
確かに、「マンネリ」という指摘は当たっています。
しかしながら、そこから「だからダメ」という結論を導くのは、かなり論理の飛躍があります。
また、「出演者の違い以外に差別化のポイントがない」という指摘も、間違っていないでしょう。
しかしそれはワイドショーだけの、いや、テレビ番組を含めたメディアのコンテンツだけの問題ではありません。
たとえば、外食チェーンの差別化ポイントはなんでしょう。やはり中心は「メニューの違い」であり、それは「出演者の違い」と同じことです。
他にも、電化製品やスーパーなど、業界内の競合は差別化、つまり相違点より、共通点の方が多いはずです。
これは先行者が何らかのイノベーションを起こしたら、競合がそれに追随するという構図があるからです。
「差別化ポイントが少ない」ことを「嫌う理由」にするのは、単に主観的な好みに理由を後付けしたとしか思えません。


………………
…………
……
…うーん、何も計算せずにやってみたのですが、反論できるものですね。
それも思った以上に(笑)
今回こんなことをやってみようと思ったきっかけは、実はあの「STAP細胞騒動」です。
様々な人が様々な論点で主張しています。
私自身もあの件についての意見はあるのですが、やはり個別の論点についてであり、「総合的に判断して」と、自分の意見として「まとめる」ことができなかったのです。
これはなぜか?
なぜ意見がまとめられないのか?
たぶん、私の中で相反する意見があり、その優先順位が付けられないためではないか?
そう考え、ひとつの思考実験として「主張を複数の根拠で述べ、その全ての根拠に対して自分自身で反論する」ことをやってみました。
そこで見えてきたこと。


◆総合的な判断を「しない方が良い」こともある。
 →無理にまとめようとして、却って論理矛盾を起こしたり、強引な結論を導くのは愚か。
 →これはまだ「まとめる時期ではない」ことを示唆している。
 →よって「判断の留保」はこういうケースで行うべき。
◆「自分への反論」は思考トレーニングとして有効。
 →主観的な好き/嫌いに無意識的に理由をこじつけていることに気づく。
 →自身の主張の論理矛盾にも気づく。
 →その結果、誤った判断やおかしな論理での主張も減らすことができる。


このやり方、なかなか面白く、そして良い経験になったので、またやってみようと思います。
みなさんもやってみませんか?
まあ、ちょっと面倒くさいですが(笑)

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