KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2007年10月25日

“亀田騒動”の議論をロジカルに見る

さて、“亀田騒動”はまだまだ収まりそうにありません。
私自身は正直そんな騒動など「どうでも良い」という立場ですが、件の世界戦直後のチャンピオンも出演していたテレビ番組で、論理思考の観点からなかなか興味深い議論がありましたので、今更とは思いつつも少しそれについて述べてみたいと思います。
その番組では、ある出演者が亀田サイドの反則については厳しい意見を述べつつも、チャンピオンに対しても、「なぜあのラウンドでは打ち合いに持ち込んでいいパンチを入れたのに、その後のラウンドでは腕を突っ張るばかりで打ち合わなかったんだ。おかげでつまらない試合になった。チャンピオンにも責任がある」という旨の発言をしていました。
それに対してはチャンピオンも、「離れて戦いたい自分と、くっついて戦いたい亀田選手のスタイルの違いから、そうなるのは仕方がなかった」と反論していました。そうしたらその出演者は、「だってあのラウンドではできていたのに」とさらに食い下がっていました。
私はこのやり取りを見て、『2つの観点から非論理的な議論である』と感じたのです。


1.表面的な議論になっている。
「あるラウンドではできていたのにその後のラウンドではできていない」というのは確かに事実ですが、それは表面的なチャンピオンの行為だけを見ているに過ぎません。
状況が違えば、ある時にはできてある時にはできないというのは当たり前にあり得ます。たとえば「営業予算が昨年は達成できたが今年は達成できなかった」というのも、市場の動向や客先担当者の変更等、様々な要因があるはずですから、「今年達成できなかったのはおかしい」とはならないはずです。
今回のケースも同様に、ラウンド毎の亀田選手の戦い方の変化や両者の疲労度合いなど、「できなかった場面からだけでは見えない部分」に思いをはせる必要があるはずです。
つまり、本質的な原因を探らずして、単に表面的な行為だけを見ていては、論理的な議論などできないはずなのです。
2.原因を「分けて」考えていない
チャンピオンも“できなかった理由(原因)”を「ファインティングスタイルの違い」で説明していたのですが、これだけでは説明としては少し説得力に欠けると言わざるを得ません。
そもそも「できなかった(Can Not)」ことがあたかも事実のようにこの議論の前提条件になっていますが、これは本当なのでしょうか。
本来これは「やらなかった(Do Not)」というのが“事実”であり、その原因を「できなかった(Can Not)」と「やる必要がなかった(May Not)」に分けて考えるべきだと思うのです。
こう考えると、「ファインティングスタイルの違い」という「できなかった」理由だけでなく、たとえば「ポイント差を考慮して冒険を避けた」や「スタミナの回復に努めていた」等の「やる必要がなかった」理由も見えてくるはずです。
もちろんチャンピオンのプライドとして、「そんな理由が本当にあっても言いたくなかった」とも考えられますから、私は別に責めるつもりは毛頭ありません。
むしろ真摯に答える姿勢はすばらしいと思いました。
さて、別に亀田騒動に限らず、こうした目でメディアを見てみてはどうでしょう。
これもまた論理的思考、「自分の頭で考える」ことのトレーニングにもなりますので。

メルマガ
登録

メルマガ
登録