KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

学びの体験記

2009年08月11日

「強い映画」の知的楽しみ方

田川英司

2009年4月から6月にかけて夕学プレミアム『agora』「李鳳宇さんと語らう【強い映画】」を受講した。大学卒業後、忙しさを理由に人生や世界についての思考停止を私は何年続けてきたのだろうか。金融恐慌が来て世界は一変した。これを契機に、資本主義の論理にどっぷりと染まって生きてきた自分を省みて、少し精神の均衡を取り戻したかったのである。
(以下、文中「強い映画」は講師の李鳳宇さんによる概念で、「時代を超えて生き続け、人に強い影響力を持ち続ける映画」のこと。)

映画で抑圧された思考を修正する

我々は社会生活の中で、ある社会的役割を選択し、期待されるひとつのパーソナリティを演じ続けて生きている。しかしふと仕事とは関係のない多様な価値観に触れたり、表現してみたい欲求を感じることがある。
これまで封印してきた感性を全開にし、能動的に右脳を働かせて映画を味わい、その結果を映画ノートとして文章にして表現する。登場人物の心の動きや家族・人間関係・人生に深く感情移入してみる、その過程で次々と提起される疑問に自分なりの回答を探しながら、映画の背後にある思想を知るために努力をする、という一連のプロセスは、ただ眺めているだけでは見えないものを見える様にしてくれるだけでなく、精神的な解放感のある作業であることを発見した。


「強い映画」は短時間の内に派生的な知識欲を刺激する。映像の背景にある、深い教養に対する自らの無知を恥じ、何とか理解しようと活発な言語衝動を引き起こす。既成の価値観や枠組みが役に立たなくなるほど変わろうとしている時代に、未来に適用できるエッセンスを豊富に含んだ知恵の宝庫に見えてくる。こうして映画と私の対話が実現する。
多様な価値観を受け入れない狭隘な精神こそが世界中で悲劇を生んでいるという現実も、「強い映画」から学んだ知恵だ。まず自分の脳内の均衡を回復し、自分の心に多様性を受け容れることから始めるべきであると実感する。

映画で教科書では学べない現代史を学ぶ

受験戦争の弊害で単に授業時間が足りなかったのか、日本の為政者や官僚が若者に政治的思考を身につけさせたくなかったからなのか、戦後の歴史について時間をかけて学校で考えた記憶が私にはない。高校までの歴史や政治経済の授業は、無味で記号的な事件や人名の羅列と暗記を要求するだけで、とても興味を持てる内容ではなかった。
李鳳宇さんは「映画は“人間の歴史を考える上での生きた資料だ”」という。「強い映画」の中で、目前の現実に立ち向かう人間の姿には、歴史の真実が宿っている。制作者の高い感性を持って取捨選択された事象の集積によって、その時代の描写に成功した映画だけの特権である。正に神は細部にこそ宿るのである。
歴史学者は「正当性」や「客観性」を問題にする。しかしそれらは永遠に相対的なものだし、いつも為政者によって歪められてきた。むしろ映画の提示する人間の歴史を我々の多様な主観によって評価することこそ、現在の我々の本当の立ち位置を知るために、必要なことなのではないか。歴史は与えられるものではない。獲得するものだと知った。少なくともこの講座は映画を通じてその時代の歴史と対話する機会というものを私に与えてくれた。教科書では教えない、現代史の現実を知りたいと感じさせてくれた。

映画は政治を超える

「強い映画」は重層的なメッセージを発している。例えば、ひとりの主人公が、観る人によって支配欲の強い傲慢な人間にも心やさしい人間にも見える。監督が政治的でないといっていても、観客には十分に政治的に見える映画もある。
歴史的には様々な制約(レーティング、コード、審査、検閲等)が存在しても、映画という芸術はそうした政治的抑圧に抵抗して表現の自由を獲得してきた。その上いくら為政者やスポンサーが規制しようとしても、この重層性を武器に巧妙にすり抜けてきた。「強い映画」は少なくともそのような力強い意思と研ぎ澄まされた知恵を持った強力な芸術だ。この意味で、映画の強さは政治を超えているといえる。観客にとって、包含されたメタファーの真意を見破ることこそ最重要であり、映画鑑賞の醍醐味ともいえる。
今日、企業広告集の様な新聞や政府や与党のプロパガンダばかり垂れ流すテレビなどのマスメディアにこうした「強さ」を期待するのはもはや絶望的に見える。勿論、映画でも興行収入の為になりふり構わぬ作品もあるが、それらを峻別する眼もまた「強い映画」により涵養できる。「強い映画」はバイアスに満ちた現代社会のバランスをとる良識の最後の砦でもある。

映画講座はコミュニティー

映画講座は映画によるひとつのケーススタディでもある。映画の持つ重層的なメッセージを理解するのに、映画ノート作成という方法は有効であった。ひとりの感性や知識だけでは捉えられないポイントも他の参加者と映画ノートをシェアすることで、複眼的な理解が可能だ。映画と対話した後の参加者との対話で理解は飛躍的に深まってゆく。
近年、自己決定、自己実現、自分探しと、個人を優先することを追求し過ぎた結果、共同体は崩壊、個人の心の絆はあらゆるところで分断されてきた。気がついてみれば、劣等感や欠乏感に苛まれる強者と顧みられず居場所のない弱者という、精神的に貧しく孤独な個人同士の希薄な人間関係ばかりになった。心の豊かさを感じられない時代なのだ。この様な時代に、本講座の試みは、ひとつの「コミュニティー形成機会」として貴重だ。映画を深く観て語り合う共通体験によって育まれる人間関係は「絆」を作りだす。第一、分断統治から三角関係、同性愛から死、ハーリングからフラダンスに至るまで、大学生から高齢者までの多様な男女が、一緒に涙を流し、心の内をさらけ出して語り合う様な「濃い」人間関係が他にあるだろうか。少なくとも私にはない。そこにはある種の懐かしい豊さすら感じるのだ。
時代が求める新しい「場」を創造し、刺激的な映画の選択や解説を頂いた李鳳宇さん、絶妙のコーディネートをしてくれた慶應MCCのスタッフの皆様のに感謝するばかりである。

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