KEIO MCC

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夕学レポート

2007年02月02日

「権力との戦い方」 佐高信さん

「佐高は一人の人間に惚れるところから思考回路が始動し、一つの事象を極めて単純に割り切り、一点突破型で評論を展開する。センサーが感知した人間性が常に評論の基準にあり、私は佐高の本質は“人間評論家”と見ている」
毎日新聞の岸井成格氏の「佐高信」評です。
きょうの講演の中で何度か、「岸井が...」と佐高さんが口にしたのは、この岸井氏のことです。
これも講演の中で、佐高さんが、小泉純一郎氏、小沢一郎氏、浜四津敏子氏という三人の政治家と慶應の同期生だったという話がありましたが、慶應昭和四十二年卒業の同期生には、嶌信彦氏、岸井成格氏という高名なジャーナリストもいます。お二人とも夕学ではおなじみの方ですね。
ことに佐高さんと岸井さんは、法学部峯村哲郎教授の法哲学ゼミの同期でもあり、学生時代から40年以上の付き合いだそうです。
冒頭の一文は、昨秋に出版されたお二人の対談集『政治原論』のあとがきに岸井さんが寄せたものです。佐高さんと岸井さんは、政治的な立場や考え方が異なり、政治記者と評論家という性質の違いもあって、意見が一致しない点の方が多かったようですが、互いの人間性や歩いてきた軌跡を熟知し合う、古くからの友人同士でなければ出来ない、率直で激しい議論が展開されています。
岸井さんは、自分自身にとって、佐高さんの存在や評論が、ある種の危険を察知するセンサーのような役割を果たしているとしたうえで、「人間評論家」と評しています。


きょうの講演でも、佐高さんのセンサーは激しくなり続けました。
長谷川慶太郎氏、堺屋太一氏、小泉純一郎氏、竹中平蔵氏、安部首相...彼が指弾した人々の名前を挙げるだけ両手の指では足らないでしょう。
佐高さんの基本的な立ち位置は、タカよりはハト、権力側よりは民衆側、中央よりは地方、イデオロギー重視よりは暮らし重視とはっきりしているので、大きなものを守るために小さなものが犠牲になることは絶対に許さないという姿勢に貫かれています。
したがって、有名な人はたいがい、佐高さんの妖剣切りつけられることを覚悟しないといけません。しかも少々の脅しにはびくともしない人なので、批判にカッとなって歯向かうと手痛い返り討ちにあってしまいます。
また、権力者の金銭に関する身綺麗さに関して「お金はどうやって手にいれたかよりは、何のために使ったか」を重視するという基準を持っているそうで、「クリーンなタカよりはダーティーなハト」という判断軸もよく知られたところです。
さて、きょうの佐高さんのセンサーは、赤色で点滅するばかりではなく、青色の時もありました。
バブルの本質をいち早く見抜いていたという北洋銀行の武井正直元頭取
異色の通産官僚といわれた佐橋滋元通産次官、
政治家を越えた 理想主義的言論人といわれた石橋湛山元首相など、
数は圧倒的に少ないものの佐高さんが高く評価した人物もいました。批判や嫌味もたっぷりまぶしてはいたものの、小渕元首相や加藤紘一氏、鈴木宗男氏などに対する評価にはどことなく温かみがありました。
彼らが「ダーティーなハト」の系譜に連なる政治家であることもありますが、佐高さんのセンサーでは、愛すべき人間性を感知したのかもしれません。
きょうの講演でも、当事首相の小渕さんを揶揄した佐高さんの表現をめぐって自民党と揉めた後に、とあるパーティーで図らずも小渕さんと同席してしまった際に、逃げ回る佐高さんを探した末に、「批判する人も必要だから」と例のニコニコ顔で語りかけてきた逸話を紹介してくれました。
佐高さんの人物評価は、自分のような耳の痛いことをいう人間に対し、拒絶や排斥をするのではなく、堂々と議論・反論したり、鷹揚に受け入れる度量を持っているかどうかが大きな比重を占めているような気がします。
小泉前首相に対してとりわけ厳しいのは、彼が批判に対して議論をするタイプではなく、世論の支持を拠り所に、議論をなくしてしまったという点にあるようです。
権力者であればあるほど、批判に対して謙虚で聞く耳を持たなければならないということでしょうか。
さて、私は、「庶民にとっての権力との戦い方」を語ったくだりが、たいへん印象的でした。
それは「疑う、うそをつく、逃げる」ことだそうです。
権力の言うことを何でもかんでも信じてはいけない。ことに耳障りの良いことを言うとき、あるいは過度に危機感を煽るときは、疑ってかかるべし。
つかなくてはいけない嘘もある。ことに弱い立場の人間や弱者の嘘は許される。
危ないときには逃げたってかまわない。道徳に縛られ過ぎるな。

さしずめ佐高流「弱者の戦略」といったところでしょうか。

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