KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2007年01月30日

「龍の背に乗る」 玄侑宗久さん

玄侑宗久さんが副住職を務める福聚寺の総本山、京都妙心寺には、「八方にらみの龍」と呼ばれる天井画があります。
狩野探幽が55歳のとき、8年の歳月を要して描きあげたとされ、龍の目は円相の中心に描かれていますが、立つ位置、見る角度によって、龍の表情や動きが変化するように見えることが有名です。
妙心寺に限らず、お寺の壁画には龍の絵が描かれていることがよくあります。また、龍神は古代から水の神とされ、日本の各地で奉られてきました。
かつてのTVアニメ『まんがにほん昔ばなし』の冒頭では、子守歌調の主題歌とともに、子どもが龍の背に乗って、自由に空を飛ぶ姿が印象的でした。
人気ドラマ『Dr.コトー診療所』のテーマ曲、中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」の旋律も記憶に新しいところです。
日本人は龍の姿、特に、龍に乗って空を飛ぶ姿に、特別な思いを抱いてきたような気がします。
きょうの玄侑さんの講演では「龍の背に乗る」というイメージが意味するものを仏教の教えに基づいて教えていただきました。
それは講演の主題であった「もう一つの知のあり方」と密接に関わるものでした。


玄侑さんによれば、「もう一つの知」とは、対象を細かい要素に分解したり、原因-結果の因果律で理解しようとする「分析知」に対峙する概念で、もの事の全体性をそのまま受け止め、身体や感覚で吸収する「身体知」のようなものです。
例えば、我々は、自転車の乗り方をマニュアルに則って教えることはしません。とにかく乗ってみて、身体の重心をどこにおけばいいのかを感覚的につかみ取っていきます。「もう一つの知」は、それに近いもののようです。
論理や科学に代表される「分析知」は、人間の大脳皮質が司る機能です。
人間は新しい体験や情報に出会うと、脳に格納されている既存知識の枠組みを使って新しい情報を分析・理解しようとします。
この話は池谷裕二さんが10/25の夕学で詳しくお話してくれた脳の基本機能に関わる部分です。
玄侑さんは、現代社会は「分析知」に偏りすぎていること、ことに全ての事象を因果律で片付けようという「因果律に毒された状態」であることに強い危機感を抱いています。
「問題には必ず答えがあり、それはひとつに集約される」
「問題には必ずその原因となる根源要因が存在する」
という発想は、ともすれば犯人捜しやスケープゴートに繋がる危険性があり、いじめ問題の底流にも関連すると考えています。
玄侑さんが、「もう一つの知」の重要性を説いて回る理由がここにあります。
仏教の教えでは、「すべてのものに実体がない、自性=私がない」と説いているそうです。
色も、温度も、時間も、実体があるわけではなく、大脳皮質が既存知識に基づいて実体があるかのように理解しているだけ。関係性の中で生まれ、関係性がなくなれば消えていく、常に変わり続ける無常のものだということでしょうか。
「いのち」ということばに「命」という漢字を使いますが、「命」とは、全体性を動かす力を意味するものだそうです。
古代の日本人は、「いのち」が全体性そのもので、「もう一つの知」でなければ受け止めることができないものだと考えてきた証左だそうです。
宿命というのは、命を変えられないものとして認識する意味
運命というのは、自分が関わることで命は変わるとする意味
立命というのは、命に乗っかろうという意味
という具合に、「いのち」を実体のある客観的な対象物としてみるのではなく、どのように受け止めるのか、その受け止め方こそが仏教の大きなテーマだったそうです。
冒頭の話にあるように、仏教で、観音様が龍に乗る絵をよく描くのは、東洋では、龍を「よくわからないもの、先の見えないものを象徴する乗り物」として認識してきたからだそうです。
龍というのは、言うまでもなく、鬼、蛇、鹿、虎等々さまざまな動物のパーツを組み合わせて作られた伝説上の神獣ですが、観音様が「龍を乗りこなす」という行為に、「いのち」に代表される不可思議で、制御できない大きな全体性と上手く付き合うイメージを重ね合わせたものだと言われています。
ちなみに、龍は英語で「Dragon(ドラゴン)」と訳されていますが、キリスト教では、Dragonはサタン(悪魔)の化身とされ、邪悪な生き物の代表になってしまいます。
東洋では、龍を、神や仏の化身とみて、不可思議なものと上手く付き合うのパートナーと考える。
西洋では、龍を、悪魔の化身とみて、打ち倒すべき敵獣と考える。
冒頭で少し紹介した、日本における龍のイメージは、知らずのうちに、東洋的な考え方を反映していることは間違いありません。
さて、「龍を乗りこなす」観音様が唱えるのが「般若心経」です。
般若とはサンスクリット語が語源ですが、「もう一つの知」を表す言葉だとのこと。
悩みや問題に直面した時に、感覚から知覚=分析知につなげずに、そのままの状態を積極的に続けようとするのが仏教でいうところの「行」にあたり、「般若心経」を唱えることもその「行」に他ならないそうです。
「般若心経」を唱えることで、意識=私を消し去り、全体性をそのままで受け止める「瞑想知」の状態になることが、「般若心経」の本質です。
「龍に乗り乗る」ための運転免許みたいなものでしょうか。
「分析知」の限界は、さまざまな世界で言及されています。
自然科学の分野では「脱・要素還元主義」という言葉が言われています。ひところ喧伝された「複雑系」という概念は、「もう一つの知」にそのままあてはまります。
経営やビジネスの世界でも、経営理念、ブランド、キャリアなど、要素還元型ではなく全体性でなければ対応できない問題が数多くあります。
玄侑さんも次世代リーダー育成研修の講師としてビジネスパースンに話す機会も多いとのこと。多くの人々が「もう一つの知」の必要性を痛感しているのでしょう。
玄侑さんの著書『現代語訳 般若心経』には、般若心経の意味はもちろんのこと、読み方も丁寧に解説してくれています。
論理的に分析することを否定するものではありませんが、論理や理屈で考えても答えの出ない問題があることもまた事実です。
そんな時のために、般若心経を唱えることも、現代人の教養のひとつかもしれません。

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